昨夜も気持ち良く飲んでしまい、翌朝のブログになってしまった

多少、私の考え方を伝えるためのものなので、ただ、よっぱらって書くよりいいかと思う

一人のメッセージにかかずりあっていると、かなり多くのメッセージがきた

応援していただけるものが多くて嬉しかった

私が東芝でひどいめにあっているからということで、東芝のLEDはどいう質問

残念ながら使っていないのでわからない

私のみるところ、東芝はタッチパネルやポインティングデザイスのセンサーがメチャクチャなのと、OSかなんかと相性が悪いようで勝手にいろいろなプログラムが立ちあがってしまうのが、DynabookとREGZA phoneの共通点だ

ロボット型掃除機のほうは、ちょっとした段差に乗り上げると、自主回復は不能だ

東芝の社長を個人的に知っている人に聞くと、実は家電にはまったく興味のない重電志向の人らしい。ただ、この会社の場合、片方に力を入れると片方がダメになるようだから、原発や医療用の機械で故障を起こされるよりましかもしれない

さて、先日からの人のことを「あんた」呼ばわりをする男のメッセージを引用した中で、「属校思考」というのがあった

たまたま、きちんと敬語の使える、まともな議論をしようと思しき人からも、私が学歴で人間を判断しているという批判を受けたので、これをまじめに考えてみたい

二人目の方のように、まともな日本語を使う方との議論はいとわないことも明言しておく
(もちろん、時間があって、議論する価値があるとこちらが判断した場合だが)

ついでに、この「あんた」呼ばわり氏によると、「引用された文章を読む限り、単なるファンレター以外の何物でもなく、僕には謙虚さなんか微塵も読み取れないし、さらにこれが「社会的成功の秘訣なのだろう」って何言ってんの、無理やりにも程がある。本人もそんなつもりで書いてないと思うよ、絶対。それにおそらくこの方よりも僕の方が現時点で高収入だと思うんだよね。ということは僕は既に社会的成功してるのかな。」(引用終わり)

まともな敬語を使っている点と、自分の成功について、他人に感謝をしている点だけでも、私は引用した方のほうが、はるかに謙虚だと思う

私の受験勉強法を批判する人は多いが、いっぽうで私のおかげで合格できたと仰る方も多い

現実には、「私のおかげで合格」することはない

本人が努力しないと受験は成功しない

でも、受験に限らず本人の力だけで成功することは難しい

とくに社会的成功はそうだろう

私自身、灘という学校にいて、いろいろと受験のテクニックを耳にすることができたから東大に入れたと思っている

金持ちの連中は自分の力だけで金持ちになれたと思っている人が多いから、税金が高いと国を出ていくとか、相続税をなくせとか言っているようだが、私が、もっと税金をあげてほしい、相続税を100%にしてほしいというのは、大した成功者でないにせよ、今日、それなりの収入を得られているのは、やはり周囲に支えられてのことだし、運が良かった部分があると思えるからだ

だから、「私のおかげで合格」というのは、本当は正しくないが、そういう気持ちの持ちようは謙虚だし、人に感謝が出来るという点で、人間としての成熟を感じる

ただ、この学生が、東大生や早慶を出た部下を使っている社会人より現時点で高収入と言えるというのは、こわい世の中だと思った

株か何かで儲けているのだろうか?

ユニクロの柳井氏などを見ても思うのだが、弱者を見下した目をした人が「成功者」になっている

アメリカのように平気で人の首を切り、自分だけいい暮らしという人が成功者に多いように、日本もそんな国になったのかもしれない

年長者であっても、給料の割に働きが悪いとののしって、やめさせていく経営者のほうが成功者になる世の中だから、こんなもの言いをしているようだとだめと、年寄り臭い説教をしたが、この「あんた」氏のほうが社会の勝ち組になるかもしれない

ただ、私は高齢者を専門とする精神科医をやっていて、そういう人は晩年みじめだろうと思っている

金で寄ってくる人がいても、認知症になったら、相手にされない

歳をとってから、みんなに敬愛されていた人は、やはり人が寄ってくる

私が生き方、考え方を変えたのは、高齢者を専門とするからだろう

さて、本題に戻ろう

私が属人思考がいけないと言ったのは、嫌な奴でもいいことを言うことがあるので、その意見も含めて判断すべきだというセオリーのもとでだが、嫌な奴の話を聞いていると、この「あんた」氏のように、こちらが感情的になって判断力がよけいにおかしくなることがある

だから、判断材料を人に頼らず、本やネット情報にして、嫌な人の話を聞かないという代替手段はありえる

さて、属校思考だが、やはりどの学校を出たかである程度、その人の思春期がそこで過ごすわけだから、影響を受ける気がする

少なくとも、私の時代なら、開成を出た奴と麻布を出た奴だと明らかに違った

今は開成の子も、麻布の子も、同じ塾に通うから、そんなに差が出ないのかもしれない

もちろん、例外はいる

ただ、私たち精神科医というのは、成育歴などを詳しく聞く

それで、どんな人なのかのアウトラインを想像して、それが間違っていると思うたびに修正する

血液型でどんな人かを想像するより、どんな学校に通っていたかを聞くほうが、想像が妥当なものになりやすい

そういう意味で、ただ勉強ができるだけでなく、教養を大切にしたという日比谷高校や旧制高校などがなくなったのは残念だと思う

学校教育というのは、アメリカなどはとくに心がけているようだが、その学校を出た人が、ほかの学校を出た人といい意味で違うようにするというのは、少なくとも二義的な目的と言っていい

もちろん、人生の中で変わったり、生涯学習で変わることはある

ただ、私が安倍氏が、受験経験がないと批判するのは、インフレを起こすと言いながら、公務員の給料を下げたり、生活保護の支給を減らしたりという形で、末端の所得を減らすという逆行した政策を取ろうとするからだ

数学の出来る人の発想ではない

これを学歴と結び付けるなと言うが、それなら何のために学校教育はあるのか?

学歴はないが、その後の学びで数学的思考ができるようになったというのなら、学歴と結び付けて批判されることはない

しかし、数学的発想が出来ない人をみれば、やはり学校教育をしっかり受けていなかったからだと判断するのはそんなにいけないことなのか?

それでは、西村和雄氏が、受験時に数学を取ったかで、生涯年収が違うという研究の意味がなくなってしまう

出来る人については、後で、もしくは学校のカラーと違って勉強したと判断されるが、出来ない人については、学校教育のせいにされるのは当然だと思っているし、生涯教育があるからと言って、学校教育をおろそかにしていいという話にならない

だから、諸外国は教育に力をいれているのだ

そういう意味で、私は、(あくまで私からみて)できない人をみれば、学校と結び付ける

ただし、出来る人については、学校とは結びつけない

学校以外に成功の条件となる要因はいくらでもあるし、学校と関係なしに勉強をすることがあるからだ

教育が大事という以上、この考え方は当分変える気はない

改めて言うが、「あんた」氏も敬語を使える批判の方も、「学校教育」と「生涯学習」を二項対立とかトレードオフで考えているようだが、両方大切なのは言うまでもない

心理学者の悪い癖かもしれないが、問題行動があった場合(まともな行動と思った場合はそうはしない)に、過去の成育歴や教育歴にさかのぼって考えるのも、私の思考パターンなのだから仕方がない