官邸の教育再生実行会議が、センター試験を廃止して、高校在学中に複数回受験できる『淘汰龍度テスト」を導入するという方向性を打ち出したらしい

いくつかの雑誌やラジオから取材を受けたし、このブログには反対のメッセージも寄せられている

私自身は、到達度テストの考え方そのものには反対しない

TOEFLやSATなどでも採用されていることだが、何回か受けて、いちばんいい点がその人の学力だという考え方も悪くはない

ただ、もともとが、中学校も高校も大学も受験したことのない総理大臣が、「大学入試に過度にエネルギーを集中せざるを得ないことが、わが国の教育の問題。幅広い観点から議論してほしい」と語ったことから、わかるように、大学受験の本質をわかっていないし、子供のいない総理大臣には、今の受験事情もさっぱりわかっていない時代錯誤な発想から始まっているから、いろいろとややこしいことになっている気がする

複数回受験のメリットもわかるが、一発勝負というのが、ミスのない日本人の国民性に大きく寄与していたのは確かだろう

今どき、ミスのない人間は必要はない。発想こそが大切だというかもしれないが、失敗学の考え方でも強調されているように、ミスを減らす最大のポイントは、これまでの失敗を反省し、それを知識化することである。ミスのない人間のほうが、経験を生かしやすいということが忘れられている

失敗が許されないのではなく、同じ失敗が許されないのだ

また、発想がユニークな経営者は必要でも、従業員はミスがないような人を用意しておかないと、製品のクオリティに大きな問題が生じる。東芝のフーリッシュフォンやダイナブックを使っていて、故障の少ないという日本製品の取り柄がなくなっているのを見るにつけ、これでいいのかと思う

東芝という会社がクズであること以上に、受験が緩くなった影響は否定できないのではないか

大学入試に過度にエネルギーを集中させるというのも、過去の話だろう

今は、私立大学では、推薦、AO,付属校あがりが半分、残りの半分の一般入試のうちの8割くらいが、定員割れ同然の入試(競争率が2倍以下、合格者は定員の倍は出すので、受験者全員が合格ということになる)、つまり、ちゃんとした競争のある入試は私立大学の定員の1割にすぎない

国立大学が地方の秀才を囲い込んでいるのだが、センター試験を廃止して、この到達度試験にすることで、おそらく学力が下がるだろう

第一、この試験の位置づけがわからない

大学受験者に、これを義務付けて、分数のできない大学生とか、スポーツしかできない大学生の推薦入学を辞めさせるというのなら、話がわかるが、センター試験の代わりという位置づけのようだ

これでは、大学生の低学力問題には何の解決にもならない

その上、なるべくペーパーテスト一辺倒にならないように、面接や小論文も課せと言っているが、これまで、それがいかに学力を下げ、子供のメンタルヘルスを悪化させる方向に寄与したかが全然総括されていない(拙著、『なぜ若者はトイレで「ひとりランチ」をするのか』が、来週に『スクールカーストの闇 なぜ若者は便所飯をするのか』というタイトルで、文庫化される。観点別評価など、教師の主観的評価の弊害について参照されたい)

今の世間知らずの大学教授の面接では、まともな人間がかえって落とされてしまう

書類送検者と、懲戒解雇者を同じ年度に出した秋田大学の医学部の入試面接で、学力が足りていたのに落とされた可哀想な病弱の少女を思いだすといい

第一、この会議のメンツがひどい

座長が、自分の大学の教育内容が受験生にソッパを向かれ、慶應とダブル合格した際に8割が慶應に行き、受験者数でも明治に抜かれた早稲田の学長というからお笑いだ

国の教育の方向性を決めるのだから、教育の成功者を選べなかったのか

そのほかにも、社会に出てから二次方程式を一度も使ったことがないと明言して、前回のゆとり教育で、中学校のカリキュラムから、解の公式をはずさせた曽野綾子女史

私がこれまで対談した中で一番不快感を感じさせた、偉そうな学習塾のオッサン

私立高校からしか東大に合格者を出さないような兼の県知事

学歴コンプレックスの首相によって集められたクズメンバーによる愚民化政策で、日本人が中国人や韓国人に劣等民族呼ばわりされる時代が近いことを直感した

誰か金持ちの力を借りて、優秀な日本人を集められるようなノアの箱舟のような大学を作りたいという夢があるが、日本のケチな金持ちでは期待できない