70歳で、50年以上無免許で運転していた人がつかまった

極悪非道というより、当時は、そのくらい甘かったのが、そのままになっているだけなのだろうが、金持ちの脱税や、パチンコの換金にはフリーパスの警察は、こういう弱い者いじめだけは大好きだ

このおじいさんは、運転できなくなって、地方で生活できるのだろうか?

ちくった奴がいるらしい

田舎でも世知辛くなっているようだ(詳しい事情はわからないが)

老老介護の限界ということで、96歳の夫が91歳の要介護の妻を絞殺した事件がでてくる

不起訴にしたらしいが、罪が問われないということで、責任がうやむやになっている

この男性の罪以上に、こんなに追い詰める行政の罪は問われることはない

人殺しの子どもになった身内の気持ちを考えると、行政の罪は重い気がする

トンネル事故で人が死ぬと、すぐに何千億かけて補修工事だが、福祉の不足で人が死んでもマスコミは何も言わない

マスコミはまさに土建屋やパチンコ屋の味方である

マスコミがこんな調子である限り、安倍政権は安泰だ

本日は、考えさせられるメッセージが二つ

一つは、ドコモが全方位外交をやめて、サムソンとソニーを重点的に売るセールスに切り替えたというもの

iPhone導入の布石という説もあるが、ドコモのユーザーの立場からすると、東芝のように努力をしないで、消費者に迷惑をかけるメーカーの存在をドコモも気づいたのではないかという気もする

ドコモショップからの苦情の情報は意外にあがっているらしい

競争にさらされると、昔ほどの殿様障害でなくなるのだろう

東芝の被害者が減ることは嬉しいが、サムソンが儲けることは、日本人としてさびしい

もう一つは、もっと哀しい話で、いつも鋭いメッセージを寄せてくれる人からのもの

高学歴のお嬢様がホームレスの就労先として、レンタルサイクル屋を始めたが、その人が、「おっちゃんはスグ拗ねる、けど、アメとムチを与えることによって教育しています」というのが、失礼だというものだ

私には、この会話の文脈がわからないし、人間関係がいいので、このような軽口をたたいても平気な関係性になっているのかもしれない

ただ、いっぽうで、少なくともメッセージの主にも、若い娘が上から目線に見えたように、文脈がわからない視聴者には、ぞんざいに映ったのも確かなのだろう

私自身、高齢者を扱っていると、比較的知的レベルが高い高齢者には、きちんと敬語を使うのに、認知症が進んできた人には、若干緩むことがあるので、気をつけている

金持ちの高齢者や社会的地位の高い高齢者には、きちんとした言葉を使うのに、福祉の対象には、偉そうな言葉使いだったり、上から目線というのは、人間の尊厳を地位や金で決めているようで、本当に不快になる気持ちはわかるし、こういうことがないように自戒している。金持ちにため口を利くというより、社会的地位の低い人にもきちんと敬語を使うという形で

しかしながら、年金は当然の権利のように思われているのに、これまで税金を払っていた人(払っていない人もいるかもしれないが)が、福祉を受けると、どうして、こんな上から目線の対応を受けないといけないのか?

この国では、福祉というのは無理なのか?

偉そうにされるくらいなら、福祉ではなく、がまんの代償であるし、私なら許せない

「雨宮処凛も語っていますが、ワーキングプアが、生保受給者をバッシングし、明日はわが身かも知れないというのに生保減額を喜び、生保減額反対運動をしている人や、生保受給者を、甘ったれたヤツら、と叩く。しかも、そんな運動をしたり、生保で引きこもっている時間があるなら、職探しせよ、働け、と。それにしても本当に、と思います。倒錯した理論がまかり通る社会になってしまっているのだな、と。」(引用終わり)

その通りの気がする

「飲酒、と言うことについても、ですが、お酒は、飲まない人には理解できない、と感じます。
例えば、飲まない人の家に食事の招待を受ける。誘い文句は"お酒も用意していますので、是非"といわれます。
そして行って出されるのが、350mlの缶ビールが一本。飲む人にとっては、飲むのは五分も掛かりません。
このとき、飲めない人は、目を白黒させて驚きます、もぉ飲み終えたのか!? と。
勿論、その後、酒が出てくることなどありません。お酒を用意するという事は、350mlの缶ビールを一本用意することであり、飲めない人には、ビール一本というのは缶とはいえ、大層な量、と思えるからです。
飲めない人にとっては、まぁ仕方がないことだとは思いますが、コップ一杯のビールでも、飲酒、危険、と感じてしまうのだろう、と思います。」(引用終わり)

この構造が飲酒運転バッシングにつながるのもよくわかる

わかりあえない国の中では、「悪」と決めつけられたら、本当に生きづらい

はっきりした肌の色の違いなどがあるほうが、わかりあう努力をするだけましかもしれない