医学生の方でたった一科目だけ落として留年になる方から何をすればいいかと問われた

難しいところだが、将来を見る準備期間にしてはどうかとしか言いようがない

実習扱いでもバイトでもいいから、病院にもぐりこんで、現在、医者の世界でどんなニーズがあるのかをみるというのもいいだろう

私も医科歯科大学で、医療経済学の講義をもっている

医療の世界の将来をそれなりに考えるヒントを提示しているつもりだが、医学部の学生は本当にこない

彼らが来れるように、夜の6時とか6時半のスタートにしているのだが、この学校の医学部の学生は何を考えているのだろうと思う

将来のことを何も考えずに、医者の免状があれば食えると思っているのなら、それはものすごく甘いだろう

医者の数も、高齢者の数も増えるのに、医療費だけは抑制政策をとっているのだから、最終的には食えなくなる

私としては不快だが、格差社会化が進んだり、保険診療で賄えない部分は自費でということになったり、混合診療が認められたり、TPPで外国人医師や外国の保険会社かが参入してくるということになると、おそらくは、自費診療の部分が膨らんでくる

今は国民医療費40兆円に対して、自費部分はわずか4000億円だが、今後はどんどん伸びてくるだろう

あるいは、TPPで日本の植民地化がさらに進み、外国人が高級医療を求めてくるかもしれない

この人の友達が、「留学するためにTOEFLの勉強をするとか、USMLEを取る」と言っているそうだが、アメリカで学ぶのがいいかどうかは別として、日本国内でも英語が話せて、外国人の患者に受けのいい医者のほうが生き残れるかもしれない

たまたま昨日は、私の尊敬する高齢者の専門家の先生のところに行っていたが、高齢者を診るためには、精神科的な知識もニーズが高そうだ

いっぽうで、医療が必要な高齢者の受け皿がどんどん狭まっているそうだ

いっぽうで、胃ろうのように大した医療行為でないのに、患者さんを「元気にする」治療は目の敵にされる

その際に問題になったのは、「推定『生きたい』」の論理だ

刑事事件では、疑わしきは罰せずの原則で、やっているかもしれないが、やっていないかもしれない人の場合は、推定無罪にする

口の聞けない、知能の低い障害児などの場合、死にたいのか生きていたいのかわからないが、殺してしまったら生き返ることがないので、推定「生きたい」ものとして、人工呼吸器も含めて濃密な治療を行う

ところが、高齢者の場合、意識がなくなっていれば、点滴の針だって何だって大して痛くないはずなのに、勝手に「苦しんでいる」「生きていたくないはずだ」と決めつけられて延命治療は放棄されるのが通例だ

その根拠が、多くの人が「寝たきりになってまで生きていたくない」と、元気なころに思うことだ

ところが、ちゃんと患者さんを診ている医者ならわかることだが(胃瘻反対派や、平穏死を主張する人はそうでない気がする。もちろん、彼らも患者家族の苦しみ、つまり口の聞ける人の苦しみはよくわかっている気がする)、実際に寝たきりになってみると、それでも生きていたいと思う高齢者のほうがずっと多い気がする

生物である以上、「生きたい」のが本能であって、そうでないとしたら、本能が壊れているということだ(もちろん、うつ病や老化で、その本能が壊れることがあるのは否定しないが)

よほど痛みがひどいとか、苦しみがひどいのでなければ、口が聞けない寝たきりの人や、重度の認知症の人でも「生きていたい」はずとして、扱うべきではないか?

私も若いころ、80になってまで生きていたくないと言って、その歳になればわかるといさめられたことがある。今は恥ずかしい

第一、私のような精神科医の立場からすると、鬱になっているかもしれないので、「死にたい」と言われたら、そのまま治療を打ち切るより、まず鬱の治療をして、それでも死にたいのなら仕方がないが(これだって鬱の治療の失敗かもしれない)、治療をして生きる希望がわいてきたら、寝たきりだって認知症だって、生きる権利はあると思う

問題はそれでは家族の負担が思い切り重くなるように、厚生労働省が在宅医療重視政策をおしつけていることだ

本人は生きていたくでも、家族は死んでほしいと思う

厚生労働省のひどい政策を変えようとするのではなく、むしろ、「平穏死」などといって正当化しようとする

金がない国というのは、ナチスのように、生きている価値のない人間は死ねという国になるということなのだろう