ここしばらく言いたい放題を書いてきたので、本日は気になるメッセージをピックアップしたい

昨日から東大入試が始まっているが、こんな質問が

「私は東大合格のために勉強していますが。登校拒否を経験したので知能、学力にかなりの遅れがあります。
 まず、数学についてですが問題を解くスピードが遅く発想力が致命的に低いです。和田先生は数学は暗記とおっしゃっていましたが東大卒の父親は東大数学は暗記を超えた発想が要求されると言っていました。やはり東大数学は発想なのでしょうかそれとも「この問題ではこういう発想をする」といったパターンを暗記したほうがよいのでしょうか。
 また国語についても読解が苦手で自分が読んだことのある文章が出題されても正解したことがありません。国語では数学のような暗記は通用しないと思うのですが和田先生はどう考えますか。
 茂木健一郎博士は記憶力は思い出す訓練をすることで発想力はややこしい事をしつこく考えることで鍛えられると言っていますが和田先生はどう思いますか。」(引用終わり)

東大卒の父親の方の世代には、数学は発想力といわれていたし、実際、東大入試も難問が多かった。今は、かなり問題も発想力を要求しなくなっている(今年は多少、難化したようだが)

ただ、実は、昔も今も半分取れればいいとか、1,2問の完答と部分点で合格と開き直れば、やはりかなりの解法パターンを覚えていれば、発想力はなくても合格ラインに届く

国語も暗記で対応できる気がするが、出題できる文章が多すぎて(今年のセンター試験は初心に戻って小林秀雄が出されたようだが)、ある程度のパターン認識をしないと、暗記だけでは難しいかもしれない(私は受験生時代、最後まで国語の苦手を脱却できなかった)

茂木氏の話で、記憶力は思いだす訓練をすることで高まると言っているとのことだが、これは現在の脳科学、認知科学の実験では確かめられているようだ

出力やテストの際に、記憶は定着するのであって、書きこんだからといって覚えられるものではないようだ

ただ、発想力については、意外に、茂木氏のようなことを言う人が多いが、確認されていないと思う

数学者の藤原正彦氏は、解法にまつわる知識が多い人が、あれこれとそれを使ってみることで難問に対応できると言っているが、私も、やはりまず解くための材料を増やすほうが、発想力が鍛えられると考える派だ

『55歳からのハローワーク』という本について(私も実は、この本が気になっている)

著者の村上龍氏が、テレビに出ていて語ったそうだ(残念ながら見ていないので、このメッセージの主の要約を書かせていただく)
「助け合ったり、支えあったりできる人との繋がり、支援し合える仲間作りは大切、困窮したときには、助けてもらえる知人、友人は必要、と皆言うけれども、そんな物を持とうとしたら、余ほど若い時から将来を見据えて、計画を立てて友人つくりをしておかない限り、無理なことだろうし、ましてや、中高年になってから、助けあえる仲間づくりを、と言われても、実際、そんなことは、相当に難しいことだろう、と村上は語っていました。
 要は今の世の中、一旦、困窮状態に陥れば、どうにもならない、と言うことのようでした。
 村上は、分かっているのだな、と感じました。
 巷で良く聞く言葉としては、生活困窮者は、孤立しているので、人と繋がれだの、積極的に仲間作りをして支援してもらえだのと容易く言うけれども、そんな事は、実質、ほぼ不可能に近いのだと思うのです。
 お金の切れ目がすべての切れ目ですから。」(引用終わり)

実際のところ、このメッセージの主が論じることは、事実に近い

まだ、精神科医にでも頼ってくれれば、かろうじて、医者とだけでもつながれるし、多少なりとも自殺の予防ができるが、自分は落後者と思っている人はそれもしづらいようだ

アルコール依存にしてもギャンブル依存にしても、自助会に入れた人は、救われるが、そうでない人が圧倒的に多い

「若い時から将来を見据えて、計画を立てて友人つくりをしておけ」というようなことを私も書いたことがあるが、生活に追われていると難しいのだろう

家族的経営というのは、メンタルヘルスの上でも、会社の中で、人間関係を作る上でも、そして福祉のわびしい社会でのセーフティネットとしても、悪いものではなかった

そんなことをしていたら、会社がつぶれると言うが、それがなくなってからのほうが、景気が低迷して、会社がつぶれるようになった。会社も疑心暗鬼で、つぶれる心配をするから260兆円も内部留保をつみながら、クビ斬りを続ける

社員も会社を信用しなくなるという相互不信の社会だ

そんな中で、人とつながりをもてと、私たち精神科医も言うが、確かに無責任と言われても仕方ない

今、私も新しい患者さんを受けるキャパシティはないが、せめて精神医療を利用して、生き続けてほしいとしか言いようがない

さて、こんなことを書いたり、私が胃瘻の支持派だから、生への執着が強い人間と思われているようだ

「先生は、患者、患者家族、医師および医療関係者は、みんな生への執着があるはずだという前提で議論されている気がします。しかし、多くの人は、あまりよぼよぼになってまで生への執着がないのではないでしょうか。私および、私の家族は少なくともあまり生への執着はありません。」(引用終わり)

このメッセージの主は、長尾和宏氏を読めという

たまたま、昨日は、この長尾氏の担当編集長と会っていた

彼が町医者として真摯に医療をやっていることもわかる

平穏死という考え方も理念としてはわかる

ただ、いくつかの点で納得できないことはある

一つは、この方がおいくつぐらいの方なのか?そして、本人もしくは家族、親族がよぼよぼとか寝たきりになっているのかということがわからないことがある

元気な人にアンケートをすれば9割くらいの人は(少なくとも自分は)寝たきりになってまで生きていたくないと答えるだろう

私にしても、今はそうだ

体も動かなくなったり、頭もぼけてまで生きていたくない気がする

しかし、私も高齢者の医療の当事者なので、彼らをたくさんみている

人間というのは、不思議なことに、車椅子になればなったでそれが受容できて、それでも生きていたくなるものだし、寝たきりになったらなったでやはり生きていたいもののようだ

以前、たけしさんにテレビの控え室で、「先生、寝たきりになってまで生きていたくないっての、うそだよな」と言われてはっとしたことがあった、「うちのばばあは、元気なころは、寝たきりになったら殺してくれといっていたのに、寝たきりになってみると、『たけし、ちゃんと医者に礼してるか?』っていうんだよ」と続けた

私の臨床感覚では、長尾氏や、このメッセージの方より、たけしさんのこの言葉のほうがよほどリアルだった

もちろん、寝たきりや車椅子で早く死にたいという人もいる

ただ、その中のかなりの部分は介護家族に冷たくされているとか、逆に介護家族に迷惑をかけているという感覚の方が多い

認知症の人も、なってみるとニコニコと楽しそうにデイサービスなどに参加されている人が多い

そういう人に「あなたは、認知症になる前は、ボケたら殺してくれと言われましたよね」ととても言う気にならない

長尾氏も真摯に訪問医療などをしておられるのだろうが、家族の話だけをきいているのではないのだろうか?

確かに、寝たきりの患者さんの話し声は聞き取りにくいし、認知症や脳血管障害の末期の方で話もできない方はたくさんいる

でも、ちゃんと聞けば、われわれの医療をありがとうとおっしゃる方は多い

そういう際に、生きる喜びをもっていることが伝わってくることは珍しくない

二つ目は、長尾氏は内科医だが、私は精神科医だという特殊性がある

うつ病の高齢者で、体も不自由で、パーキンソンの症状もあって、妻や子供に先立たれた人が「早くあの世に連れて行ってほしいです」とか、「私はもう生きすぎました」とか言われると、確かにそうだろうと聞こえる

ところが、うつ病の薬がちゃんと効くと、それなりに笑顔を取り戻し、死にたいといわなくなり、ご飯もちゃんと食べるようになったりする

そういうのを薬を使った脳の操作とみるのか、あるいは、うつ病の治療がうまくいったとみるのかは、私にはわからない

ただ、私の臨床感覚としては、人生の最期をうつの不快感で迎えるよりは、生きていることがありがたいと思って、死を迎えるほうがよほどましだと思える

少なくとも「生きていたくない」気持ちを尊重しろなどと言われては、ふだん、そんなことを口にするうつ病患者を前にする精神科医はやっていられない

三つ目は、なぜ胃ろうが悪くて、点滴だったらいいのか、あるいは血圧や血糖値の薬だったらいいのかがわからない

胃ろうだと医療行為をしなくても患者が元気になるから医者として腹立たしいということもあるのかもしれない

点滴と比べ物にならないくらい儲からないという側面もある

もちろん、胃ろうだって寿命には勝てないから、末期になると外からみると悲惨に見えることもある

不自然な死がいけないのなら、点滴のほうがよほど不自然だろう

体が浮腫み(これは心不全だからかなり息苦しい)、おなかがひもじい状態が改善しない点滴より、私なら胃ろうを選ぶ

四つ目は、なぜ若い人の身体障害者や知的障害者なら、なるべく長生きしてほしいし、医療もやるべき(あるいはこういう人は生きていたい)なのに、歳をとって麻痺や手足が不自由になったりした人や認知症の人は、医療をやるべきでないし、こういう人は生への執着などないという話になるのか?

最後に医療財政が潤沢なころは、どんな状態でも長生きしたいはずだという風に、医者も患者も考えていたのに、医療財政が逼迫してくると、寝たきりになってまで生きていたくない論が台頭するのか?

確かに、元気なうちはほとんどの人が、寝たきりになってまで生きていたいとは思わないから、この手の官僚の洗脳にすぐに感化される

でも、それが洗脳かもしれないと疑えないのだろうか?

実際、日本人のほとんどは株価が上がったので、自分の給料が一円も上がらず、物価も上がっていないのに景気がよくなったと思っており、安倍内閣の支持率はうなぎのぼりだ

株価があがれば景気がよくなっているし、経済政策がうまくいっていると国民に信じ込ませることができれば(バブルの前は、景気のよしあしは株価などではなく、経済成長率や失業率で判断していた。そして、新聞やテレビで日経平均などが当たり前に取り上げられなかった)、金持ちの思い通りの政策をやらせることができる

金持ちの税金を安くして、株の儲けの課税を低くして、その分、貧乏人から消費税を高くするといえば、金持ちたちが株を買いに走ればいいし、逆の政策をとられたら、売り浴びせればいい

株価を決めるのは金持ちであって貧乏人ではない

しかし、貧乏人の洗脳がうまくいけば、自分たちの生活はちっともよくならなくても株価を上げる政党に投票する

株価が上がると、銀座などが栄えるから一見景気がよくなった感じになり、大衆の肌感覚と合うのだろう

寝たきりになってまで生きていたくないというのと同類だ

このメッセージの主は、「糖尿病患者は、好きな物=糖質を食べて、舌は満足しますが、体はだるくて体調不良になり、幸せにはなれません。糖質を取らなければ本当によいことばかりです。すぐには実感できなかったり、糖質を食べられない欲求不満はたまるかもしれませんが、続ければそれが幸福であることは間違いないと思います。高齢でもそうだと思います。」とも書いておられる

そうなのかもしれないが、私の、これまでの臨床感覚とは違う

昔、ブドウ糖注射を打てば、元気になって、頭がさえたように、人間というのは一般的に血糖値が高いほうが、活力がある

糖尿の人がみんな血糖値が高いときは体がだるいかというと、そうでない人は少なくともたくさんみている

血糖値が高いことが非常にいけないことという暗示を医者から受けているうちにそうなってしまうのかもしれない

血圧が高いと頭が痛くなるというが、これもおそらくは、そうなるメカニズムがはっきりしない

実際、私も血圧が190-200あったことがあったが、頭が痛くなった覚えはなかった

もちろん、そういう患者さんがいる以上、訴えは真摯に聞くようにしたいが、一つだけいえることは人間の死ぬ確率は100%で、それが早いか遅いかの違いだということだ

10年先とか20年先とかでなく、今、具合がよくしたい、今、生きていたいという人であれば寝たきりであろうが、認知症であろうが、生き続かせてあげたいし、今、早死にしてもいいというのなら、無理に血圧の薬や血糖値の薬を飲む必要がないのではないかとつい思ってしまうのだ