先日、私が言いたかったのは、子ども手当であれ、生活保護であれ、消費税増税分の低所得者に対する給付であれ、今の政府もマスコミも官僚も、給付をすごく嫌うということである

給付のほうが安上がりで、直接助けるべき人を助け、消費も刺激すると思うのだが、利権がない

生活保護の人間に、働きもしない人間なんだから、生きる価値がないと言わんばかりに、給付を引き下げる話になっているが、餌と寝るところだけ与えておけばいいという人間を奴隷扱いする発想では、その中から這い上がってくる人間をかえって少なくする気がする

ただ、私には生きる価値のない人間などいないと思う

あと、景気回復の期待が強いが、小泉改革の時なども、株価だけは上がったが、従業員の給料は上がらず、結果的にデフレは止まらず、自殺が増えたということがある

大衆や低所得者層の収入を増やしていかないと、最低物価は、おそらく変わらないということになるだろう。金持ちに金をもたせても、貯蓄と外国のブランド品ばかり買って、日本経済や日本の産業は強くならない

「薄っぺらな毎日で長生きするより、密度の濃い生き方をしたいと思うのですが、周りの人からすると「短命でいいの?」みたいなことを言われます。」(引用終わり)
について、私がどう思うのかを問われた

薄っぺらで長生きがいけないとは思わないが、自己選択はしてもいいだろう

『「自尊死」のすすめ』という本については、去年の9月7日のブログに書いたが、食べたいものをがまんしたり、薬を飲んでふらふらしてまで、長生きを選ぶかどうかは、医者が決めることでなく、患者が選んでいいことだろう

ただ、だからといって、医療の力で長生きするとか、寝たきりの人の生きる権利を否定する気はない

どう生きるかは、それこそ自己決定の問題で、医者とか、政府が決めることではない

鬱になると毎日生きることがつらいことがある。

それでも、ちゃんと治療を受けると、また生きることに喜びが持てることはある

それは医者として本当に嬉しいことだ

生きる価値だけで生きることを決めるのでなく、助けを素直に求められることや、そういう環境は本当に大切だと思う

「先日何度か秋田大学医学部のことが取り上げられていましたが、それに関連しまして一つお伺いしたいことがあり、メッセージを送らせていただきます。10年以上前に、当時過去最高齢で医師国家試験に合格された安積雅子さんという方がいらっしゃいますが、安積さんは秋田大学を卒業されたと記憶しております。医学部入学時は50代だった方なので、先日の和田先生のブログ記事を読むまでは、秋田大学は年齢による差別をしない大学なのだと私は認識していました。」(引用終わり)というメッセージ

これについては、一応調べてみたが、その方が医師国家試験に最高齢で受かられたのが2001年のことのようだ

逆算すると、この方が、秋田の医学部に入ったのは1995年以前ということになるが、この頃は面接をやっていなかった可能性が高い

私の記憶では2004年の国立大学法人化の前後に、京都大学が、文部省に恫喝されて、入試面接を導入したはずだ。それまでは、京大は、短い時間の面接では、適性はわからないとまっとうなことを言って、面接をやっていなかった

その頃までは、ほとんどの国立大学が面接を導入していたが、95年というと、それよりずっと前の話だからだ

昔から、秋田大学の精神科は、生物学的精神医学という感じて、人の心より、脳波とか薬の研究とかが好きな人間が教授になる大学だった

だから、面接があったとして、こういう高齢の方を入学させる度量があると私には思えないが、誤解かどうか教えてほしい

そのほか、橋下氏だけでなく、前の安倍内閣のときの教育再生会議も、ある程度、体罰容認のような姿勢だったのではないかという指摘があった

私もそう記憶している

何日か前の新聞で、いじめは原則的に学校が解決すべきで警察が入るのは例外だという少年法の専門家のコメントが出ていたが、学校でなんでも解決しようとするから、体罰が出てくるという側面も忘れてはいけない

さて、また、例の体罰後の自殺事件で取材を受けたのだが、比較的、的を射た取材だった(記事はどうなるかわからないが)

で、その記者も私も問題にしたのは、体罰だけが問題ではなく、体罰を受けた後に自殺に走らないようにするにはどうすればいいかが抜け落ちているということだ

ストレスとかトラウマというのは受け手が感じる主観的なものとされている

同じストレッサーがあっても、それを受け手がどの程度のストレスに感じるかは違う

あるいは同じトラウマ的出来事があっても、これも受け手によって生じた心の傷(トラウマ)は違う

そこで心を鍛えろとかいう話が出てくるのだが、短期間ではうまくいかない

ただ、心が鍛えられなかったとしても、受け手の負担を軽減する方法はある

それは人に相談に乗ってもらうことと、逃げ場を用意してやることだ

同じ、いじめや体罰というストレッサーがあっても、誰かに泣きつけるのなら、受け手のストレスは一般的に軽くなる

いじめ自殺というような場合のほとんどが、誰にも打ち明けることができず、一人で抱え込んでいる

あるいは、学校でいじめられても塾に逃げ場があるとか、転校できるとかいう場合は、やはりストレスが軽減される

今回の問題でも、体罰を受けても、逃げ場がないから、心が追いつめられたという要素が大きいように思う

いじめや体罰の加害者を叩くということで、マスコミも視聴者もカタルシスを得ているのかもしれないが、現実的になくすことが困難なら、逃げ場の用意は必要だろう

おそらく似たような体罰のある学校も、あるいはそういう体育会系の教師もまだ全国に残っているだろう

でも、進級や大学への推薦、内申点などがかかっていると言いだせないことが多いのではないか?

とくに観点別評価が始まって以来、中学生のころから、教師に気に入られなければということを叩きこまれている生徒は少なくないはずだ

あるいは、逃げ場がないと感じることが多いのではないか?

学校をやめても、高認から受験で大学に入れるとか言う別の道を提示してあげないと、学校の中でストレスを受けた子どもが、追いつめられる危険は大きい

犯罪レベルでないいじめの場合は、なくすことばかりに血道をあげて、一般の生徒のコミュニケーションを息苦しいものにしたり、建前的な仲良さばかりを追うより、逃げ場を作ってやるほうが現実的だろうし、いじめをなくすより、いじめ自殺やいじめによるストレスの軽減のほうが現実的なはずだし、むしろ望ましい気がする

そして、加害者退治だけでは、意外に解決することも少ないし、自殺することで復讐できると思わせて自殺を誘発する危険だってある

マスコミにはそういう姿勢をもってもらいたいのだが