さて、本日はたくさんメッセージをいただいた

体育会系の問題については、こういうメッセージ

「僕は和田式勉強法を部活の先輩に教えてもらいました。苦楽を共にしているチームメイトから紹介される勉強法というのは参考になりやすいですし、クチコミに乗りやすいのが人間だと思います。
実際、僕の後輩で高3の12月まで部活をやって東海大会まで進出してそこから現役で神戸大学の医学部に入った子がいます。
本当に筋肉バカの高校の体育会系は勉強に価値を見いだせない人が多いかもしれませんが、灘高までいかなくてもそこそこのできる地方公立高校ではスポーツは全国区一歩手前、だけど勉強をなんとかがんばって一流大学にいくというパターンはかなりあると僕は見ています。
僕の場合、陸上部でなかったら和田先生の本と出会っていなかったかもしれないのですら・・・」(引用終わり)

確かに、意外に体育会系の受験生が和田式と出会うといい結果を残すことが多いようだ

限られた時間とか、正しい方向性の努力とかいう発想があるので、少ない時間を有効に使おうと、和田式でうまく勉強して結果を残す

そういう点では、私も体育会系がダメと言いたいわけでない。

スポーツさえできればいいという発想、あるいは叩けば人間が伸びるといういい加減な発想が許せないだけだ。だから、体育教師より、スポーツを教える一般科の教師のほうが、スポーツを教えるには適しているような気がする

このメッセージの主は受験勉強をしたわけだが、推薦で名門大学に入って、駅伝を走るような人というか、推薦入試の制度そのものが、スポーツさえできればいいという発想を蔓延させかねない

高学歴者が、勉強さえできればいいという考え方をもつことはまず許されないし、現実に勉強は手段であって、目的ではない。学歴だけでは出世はできない

塾の教師でさえ、自分が勉強ができても、教える能力が高くなければ、雇ってもらえない

しかし、体育教師は体育の教え方が下手でも、雇ってもらえるようだ(今は、どうかしらないが。こんな体罰教師が残っているということはそういうことではないか?)

私は基本的に体罰に価値があるように思えないが、熱心な先生で体罰をやった先生を懐かしく思う子どもはいるようだ

いっぽうで、今の世の中がマッチョなほうが偉いという風になっているので、明治憲法下でさえ禁止されていた体罰を肯定する声が強いという話もある

ただ、今のマッチョ主義はまずい気がする

憲法改正とか、竹島や尖閣に強気でというのは気持ちとしてはわかるが、ちゃんと国が得をするかを考える必要はある

アメリカでは、「私は韓国のdokudoを愛している」という車は見かけたが、日本人はそういうアピールはしない

戦争も昔と違って得をしない

建前上、ひどい国を正しい国にするための戦争と言う形になるので、その後、収奪的なことは許されず、住民に投票させて、選挙をしないといけない

マッチョな気分が満たされるとか、アメリカのように軍需産業が潤うというのならともかくとして、マッチョで得をしなかったり、マッチョにしようとした矢先に、財界からいろいろ言われて腰折れと言うのなら、かえってマッチョにしないほうがカッコいいような気がするし、頭の悪いマッチョは、同じマッチョでも見る人が見ると、いちばんカッコ悪い気がするのだが