勉強のやり方をいつ見切って、次のやり方を試すということについて下記のようなメッセージをいただいた

「『線引きの勘』は学習における成功体験で身につくと考えています。
学習の経験値を積むと、「つもりの理解」と「ホンマもんの理解」の違いが直感的に分かるようになるんだと思います。勉強自体は苦行で、勉強をするには我慢が必要ですが、「結果につながる苦痛」か「結果につながらない苦痛」かを、頭では無く体が反応して自分に知らせてくれるんです。」(引用終わり)

そんな気がするとしかいいようがない

少なくとも勉強をしていないとそういう勘が天性で得られるとは私も思えない

もう一つ11日のブログで、勝間さんがgifitedだからあてにならないとか、何にでも原因を求めることについて私はそういう考えでないという話を書いたのを批判めいて受け取られるといけないからあえて誤解を解いておきたい(誰に抗議を受けたわけではない)

やはり、一つ一つのことに考える習慣は大切だし、原因を求めようとする姿勢はむしろ頭が下がる

私が嫌いなのは、ある原因帰属をみつけたときに、それを自明の真理だと思って、変えようとしたいことだ

新たな情報を得たときに考え方が変えられるのなら、当座の仮説をもつほうが理解は進む

勝間さんはそういう柔軟性は持ち合わせていくことは付け加えておきたい

さて、ここまで書いていると、私がさぞ生き方が上手な人間とか、それを自負しているとか思われがちだが、決してそんなことはない

映画でも実は苦闘しているし、いわゆる出世という点では、もっとひどい

昔、こんなことがあった

アメリカ留学中に、トマス・オグデンという精神分析家の本がとても面白かったので、著者に手紙を出して、翻訳権をもらった

それをとある出版社に出させてくれとアメリカから電話だか、手紙だかをしたら、編集者で会議をした結果、翻訳出版のOKが出た

ところが、1週間ほどして、えらい精神分析学者の先生から、「その本は、自分のほうが先に翻訳を申し込んでいた。でも、君がそこまでやりたいなら訳させてやるから、下訳という形にして、自分は監訳という形でいいと」

編集者が全員、その先生が前に翻訳の申し入れを忘れていたのはさすがに不自然だと思って抗議したが、結果的に、やはりその先生のほうが先という話になって受け入れてもらえなかった

先輩のアドバイスでは、そこは素直にしたがったほうが、日本の精神分析の世界では、王道に入れるという話だった

私は、しかし頭にきて、それなら、その本の翻訳をあきらめると言ってオグデンに手紙を出した

そして、まだ出版されていない本の翻訳権をもらって(これならさすがに先に翻訳を申し出たと主張する人はいないだろう)、別の出版社で、日米6ヶ月ほどのタイムラグで翻訳書を出すことはできた

おかげで日本にオグデンがきたときに食事をしたり、サンフランシスコに尋ねていく仲になった

おそらく日本の精神分析学者でオグデンの実物と話したことがある人はいないはずだ

そのくらい、人見知りのひどい人のようだ

その本は、それより遅くになって、別の先生が訳で、その偉い先生が監訳という形で翻訳書が出た

その後、私の先輩のアドバイスは当たった

私は、日本の精神分析の学会ではまったく相手にされず、50をすぎても座長経験すらない

自己心理学では、私しか英文の論文がないのに、自己心理学のシンポジウムでも呼ばれないし、神戸でもいわきでも被災者支援を実際にやっているのに、そのシンポジウムにも呼ばれない

私の代わりに下訳をやった先生は、その後、とんとん拍子に精神分析学会のメジャーになって、ついに精神分析学会の会長になった

英文の論文ゼロだというのに

森田療法のように日本発祥のものなら英文の論文がゼロでも問題ないだろうが、外来学問なのに、外国の水準に達していなくてもいいのかと不思議に思う

でも、こういうのは負け犬の遠吠えのように思われるだろう

何が言いたいかと言うと、そのほうが得だと思える生き方をするのが、私は下手だということだ

日本で認められなくても外国で認められたらいいとすぐに思ってしまう

映画のほうも、日本の評論家に媚を売る気になれない

でも、それでは成功者になれない

反省して、映画の世界では、もっと偉い人に頭が下げられるようになろうと思う

ただ、世間で成功するほうが、受験で合格するよりよほど難しいことは知っておいたほうがいい気がする

これだけの点をとればいい程度のこともクリアできなくて、いろいろなシチュエーションでどうすれば成功できるかということを考えた上でクリアするのは、ほとんど難しいのではないかと私には思えれならない

成功者でないという点では、私も、私にいちゃもんをつける人と同レベルなのだが