千葉の虐待死事件で、母親に懲役10年の求刑が出たそうだ

裁判員裁判になって一般人の感覚が判決に反映されるようになり、児童虐待については重罰化が進んでいるが、何人も殺しといてとか、オムツを食べるほどのひどい飢えを味わわせといてというようなエグイ事件でも、せいぜい求刑は懲役10年どまりだ

これは、すべて検察の及び腰のためである

今回も罪状は、保護責任者遺棄致死と同致傷だから、10年の求刑が関の山だ

死ぬに決まっているようなことをやったのだから、未必の故意を認定して、殺人で立件すれば15年くらいは求刑できたはずだ

これに未必の故意を認めるかどうかが裁判員の民意というものである

検察が勝手に決めるのなら何のために裁判員制度を導入したのかわからない

検察が手抜きである以上、たとえば悪ガキたちの集団リンチのような事件でも、傷害致死になる

集団犯罪のほうがトラウマが大きいのだから厳罰化したり、死ぬ確率が高いというロジックで未必の故意を認定して検察が勝負に出る

裁判員がそれを認めて判例を作る

それこそが裁判員制度の真の意味だろう

検察の手抜きが治らない限り、悪ガキや児童虐待をするような人間のクズ(精神科医の立場からすると病的だし同情しないといけないのだろうが、精神障害があってもがまんできている人がいる以上、私はやはりやった罪は償うべきだと思っている。確かにクズという言い方はいけないが、人間としてはそう思う)を厳罰化できないということは知ってほしい

検察というのは、自分の気に入らない人間をコテンパンにやつけたり、社会生命を奪うようなことを平気でするが、敗訴が出世にかかわるようで、こういうことには思いきった勝負に出ないので、裁判員の価値を落としているのである。大衆感情を導入して、自分たちの都合のいい判決を出すために裁判員の制度を進めてきた法務省のダブルスタンダードと言ってもいい

さて、福岡の市長が市役所の職員に自宅以外で酒を飲むなというおふれを出したそうだ

三々九度は例外としても、公私を問わないということで、結婚式に呼ばれても、新郎や新婦であっても三々九度の後は飲んではいけない、新郎や新婦であっても飲んではいけないという厳しいものだ

さすがに今回は飲酒運転の厳罰化のときと違って、厳しすぎるという声も少しはマスコミで取り上げられはしている

ただ、公務員なら当然という声もやはり強い

私が飲酒運転の厳罰化に異論を唱えたのは、地方と都会が一律であることや、公が代わりの交通手段を用意しないなら、貧しい人や地方の人が外で飲めなくなること、それが飲食店の倒産にもつながるし、人々のコミュニケーションやメンタルヘルスにも悪いこと、家でしか飲めないとアルコール依存が増えること、そして、アルコール依存の人は飲酒運転を厳罰化してもお酒をやめることができない人が多いので、結果的に免許を失い、社会復帰のチャンスを失うことなどを挙げていた

だから、公共交通を地方でも用意してあげるなら、たとえば夜のマイクロバスでも用意することができるなら、それほど強く反対はするつもりはない

ただ、もう一つ私が文句を言ったのは、飲酒というのは、実は運転でも危ないが、お酒を飲んで仮に公共交通を使っても、けんかのリスクや痴漢のリスクなどは増えるから、運転だけを禁止するのはおかしいというのはある

そういう意味では今回のほうが本質をついている

飲酒運転が危ないのではなく、飲酒そのものが危ないのだと

夜中に人の歩いていないような田舎だったら、飲酒運転より、飲み屋での飲酒によるけんかなどのほうがけが人がたくさん出る可能性すらある

おそらく、これが禁酒法の精神だったのだろう

さらに飲酒は一定のリスクでアルコール依存も招くし、肝臓を悪くして人を死においやることもある

アルコール関連死の数は年間5万人とされる

日本の場合、お酒を体質的に飲めない人が人口の半分もいるから、飲酒運転の厳罰化でも、今回のようなドラスティックな対応でも、半分の人は激烈に反対はしない

だから、そういうお酒飲みいじめのような政策が非常にやりやすい国である

外国ならこんなこと反感を買ってできないだろう

いっぽうで、日本は酒の上でのトラブルには非常に寛容だし、お祭り的なことには、あるいは会社ぐるみの歓迎会、新年会、忘年会、そして花見や月見などには酒がつきものになっている。18歳だから法律違反なのに、大学生になれば必ず酒を飲まされる(最近は、強制しなくなりつつあるようだが)

だから、酒が飲めない人が、酒に関してルサンチマンのようなものをもちやすいのではないか?酒の上でのトラブルが、飲酒事故であれ、今回のようなことであれ、ニュースになると、もっと厳しく取り締まれという話になるし、溜飲も下がる。酒の飲めない人が人口の半分もいるから、このパワーは馬鹿に出来ない

でも、今回の騒ぎでも酒の広告規制をやれという話は絶対にでてこない

WHOの総会で、2010年の5月に、「アルコールの有害な使用を減らすための世界戦略」が採択され、対策の例として、広告を規制することなどが挙がっているのに、マスコミは無視黙殺をきめこむ。とくにテレビはそうだ。日本は先進国の中で、唯一、アルコール飲料のテレビ広告が実質的に野放しの国なのだ。

テレビのコメンテーターは絶対にそんな話をしない。それをやるとクビになることがわかっているからだ。お酒が飲めない人間が半分もいる国だから、それが知られた時の影響をテレビ局も代理店も当のアルコール飲料の会社もわかっているのだろう。

中国や北朝鮮も真っ青な言論規制国家、そして、正義の味方のふりをして死者が大量に出ているから広告をやめろというのが世界のトレンドなのに、アルコール広告については、「自主規制」をするテレビのコメンテーターたちには、今回も背筋が寒くなった

国が言論統制をするより、建前は民主主義、自由主義なのに、金儲けのために、民間企業が言論統制をできる国のほうが、よほど怖い