飛行機の事故(結局大事にいたらなかったが)が話題になっている

なぜ、こんなミスをしたのか?

もちろん、そういう原因究明も大切だろう

しかし、ここに本質的な人間理解の欠如がある

人間というのは機械でないから、どんなに気をつけていても、何千分の1、何万分の1でミスをする

受験経験がある人なら、ミスをしたことのない人はいないだろう

医療ミスにしても、確かにないに越したことがないし、やられた側のことを考えると、やった側が責められるのは仕方ない

しかし、やはりゼロにできないのが人間だ

やった側が民事責任を負うのではなく、刑事で処罰されるなら、医者は誰も、自分はミスゼロだとは思っていない(思っている医者のほうがよほど怖い)からなり手がなくなるのはもっともだ

昨日の朝、別のテレビ番組を見ていたら、1000年に一度の津波や地震がきても大丈夫な町づくりをやるとかいう話をしていた

そのためには300mに一棟高い建物を建てないといけないそうだ

全国の人の住む海岸はみんな同じことなのだろう

これには、相当のお金もかかるし、それ以上に景観が台無しになる

実際、景観を守る条例がある海岸の町も少なくなくて、そのために条例をかえないといけないそうだ

たとえば、地震がきたら、自動車を通行禁止にして、トラックの荷台でもいいから救急避難車を出すとかすれば、この300mの距離がもっと長くなるとか工夫はあるだろう

ただ、私はもっと別の発想だ

1000年に一度に備えるくらいなら、運悪く、亡くなる人が出てもいいから、景観を守るという発想の人がなぜ出てこないのだろう

人間の死ぬ確率は100%。1000年生きる確率は0%。だが、どんなに対策をしても死者は出るだろう

原発による、万が一の地震がきたら、福島の二の舞になる(まだ住民の死者は出ていない。風評被害による自殺者は出ているが。今後、がんが増えるかもしれないというレベルの話だ)というのを恐れて、原発を止めていたら、水力発電に頼るためにダムの水位を上げることで、台風の被害を大きなものにした

確率論的な死を恐れるために、実際の死がその期待値よりはるかに大きなものになってしまう

死の確率を下げることは大事だが、そのコストは考えないといけない

景観、電力不足、そして膨大な税金の投入

不景気と高齢化の中、税金をこの手のことにたくさん使うことは、失業者や高齢者への福祉を削ることにつながるのはほぼ確実なことだ

結果的に、はるかに多くの命が奪われる

昨日も東電の職員の7000人のリストラが発表されていた

彼らは、何も悪いことをしたわけではない

しかし、悪い会社の社員ということで、リストラされても同情されない

おそらくは何人か自殺が出るだろう

下手をすると何十人かもしれない(長期的に追跡をすればの話だが)

あるいは、テレビの収入減であるアルコール飲料は自殺だけで年間7000人の命を奪っていると推定される。肝臓障害、そのほかを合わせると万単位だろう

こういう命はまったく無視されるのに、自分たちにふりかかる何千万分の1とか、もっと低い確率の死を減らすためには大騒ぎする

あるいは、テレビの決めた大切な命は大切にされ、それに莫大な金がつぎこまれるのに、テレビが考える不要な命(テレビ局が嫌いな会社に勤めている社員とか、アルコール飲料の広告をみてアルコールを飲みすぎるような、テレビ局から言わせるとクズな人間‐‐私からみたら立派な病人だが)の命はいくら犠牲になってもいい

生命表によると、11-12歳の子どもの死亡率がいちばん低くて、1年間に1万分の1だそうだ

それでも、今12歳の子どもがこの1年間で死ぬ確率は1万分の1はある

51歳の男である私の場合、それが0.39%、約250分の1の確率で来年までに死ぬ

放射能や地震に対するいろいろな備えをしたところで、意外にこんな数値は動かないはずだ

人の命に絶対はないという当たり前のことに気づくべきだ

細菌をゼロにするために手を何時間も洗い続ける強迫神経症の患者さんがいる

そのために仕事ができなかったり、掃除ができなかったりして、かえって外から見たら不潔なこともある

この原因は不適応な完全主義だと、精神科医は考える

そして、それを捨てるようにアドバイスしていく(少なくとも認知療法や森田療法を行う人は)

今の日本の糞マスコミに一番言いたいのは、そういうことなのである