昨日のブログに対して下記のようなメッセージをいただいた。

今回のブログについて、障害を持つ子供(長女の目のコロボーマや発達遅延)の親としての意見を述べさせていただきます。

「役に立つかどうか」と言われれば「社会貢献という点では難しい、でも私と妻、長男、次女には必要な存在です」としか答えられません。お年寄りだってそうでしょう。寝たきりにでもなれば、それこそ社会的には役には立たない。それでも誰かの精神的な支えにさえなってくれていれば、それだけで生きている価値、意義があると思います。

一番恐いのは、腫れ物扱いされること。可哀想な人達だから批判してはいけない、弱者を傷つける発言はいけない、といった排他的な思想です。

多様な価値観、多様な意見が認められない社会ほど、弱者にとって恐ろしいものはないと思っています。

勝ち組、負け組の考え方がいけないのなら、私は健常に生まれ育っている長男、次女に「頑張って勉強して、お姉ちゃんを助けてあげて」とも言えなくなります。
(引用終)

私自身は、涙が出るほど嬉しかったし、この方の考え方には賛同する。いろいろとご苦労なさった方ならではの発言だ。

もちろん、この方の言うようにいろいろな考え方があっていい。

私だって子供に勉強しろというのは、社会の役に立つ人間になってほしいからだが、それが難しい生涯を抱えたり、事故の後遺症になったり、寝たきりの高齢者になったりする方はいる。確かに書き方がよくなかったかもしれないが、私は障害者が役に立たないと(立たないこともあるとか、立たないと思われているという書き方のほうがよかったのはわかっている)書いたのは事実だが、障害者が価値がないとは思っていないし、書いてもいない。ときどき、許せない犯罪者をみて、生きる価値がないと思うことはあるが、人間、みんな生きる価値があると思っているし、だからこそ、自殺やアルコール依存という病を自己決定で片づけようとする人間が許せないのだ。

と言いながら、実は本日はしょうもないことで腹を立てている。

安藤美姫が勝ったのはよかったが、キムヨナの点が、浅田真央の点と比べてよすぎる。

前のオリンピックのときも痛感したことだ。「こんな点のつけ方をしていたら、買収疑惑も高まるし、反韓感情も高まるだけなのではないか?」と思わず声を出すと、「日本では、タレントがみんなキムヨナに好意的だから、一般の人もキムヨナのほうがすごかったと思っているのよ」とワイフにたしなめられた。

タレントはロッテと、マルハンに気に入られたいのだろう。

少し、冷静になってみると、浅田真央にしても、安藤美姫にしても、大変なスポーツを選んだし、その精神力はすごいと思った。

スピードスケートなら結果ははっきりしているし、努力の方向性もはっきりしている。

しかし、フィギュアの場合、審判がどんな風に点をつけるかわからない中で全力を尽くさないといけない。

つくづく、15歳の子供に内申書で受験をさせることや、面接重視の入試がいいと思っている人間は、人間の不安の本質がわかっていないと思う。

実際、新学力観が導入された、93年ごろから中学生の生徒間暴力も校内暴力も不登校もみんな増えているのだ。