本日はありがたいことにものすごい数でメッセージがきて、ちょっと答えきれなくて申し訳ない。
ガソリンについてはスタンドに勤めている方から便乗値上げではないという話がきた。
計算してもその通りと思う。実は、私自身、日本の商売人(悪い意味で使っている言葉ではない)というのは、本当に良心的と思う。
アテネオリンピックに招待されて行ったときに、ホテルが一泊20万円だったそうだ(招待した人から聞いた話だが)。外国は本当に資本主義で、足りなければすぐに値上げするし、余っているとものすごくディスカウントする(ホテルなどがいい例だが)。日本でもあまっているとディスカウントはありえるが、足りないからといってそんなに値上げをしない。
今回の震災でいろいろなものが品薄になっていて、ネット上などでは値上げになっているものもあるようだが、普通の店ではなくなることはあっても値上げはほとんどない。これは大した商道徳だ。
計画停電は当初の予定の荒川区を除くというだけでなく、足立区もやっているそうだ。
いっぽうで、
「東京の3/14(月)15時にアップされた表と3/17(木)1時にアップされた表を比べると、
・大田区第4(北千束、石川町)
・世田谷区第4(東玉川、成城、玉川田園調布等)
・杉並第1(善福寺等)
・練馬区第1(大泉、石神井台、大泉学園等)
・目黒第4(八雲、大岡山、千束、自由が丘、緑ヶ丘等)
が、理由もなく計画停電エリアから対象外地域となり、そのことは東京電力さんも認識していると聞きます。」(以上引用)
という話も聞いた。
こんなときに、こんな露骨な差別をやっていいのだろうか?上記は東京の人ならほとんどの人が知っている高級住宅地ばかりだ。
逆に自分の住んでいるところが高級住宅地と思っている人で、それが上記に入っていない人は焦るかもしれないが。
原発が本当にいるのかという話。
どの程度、電気なしで我慢できるかによると思う。
今、どこにいっても薄暗い。今は気が張っているからいいだろうが、うつ病が増えないか心配になるレベルだ。実際、間接照明のヨーロッパやアメリカでは、冬場だけうつになる季節うつ病が多く、光療法が当たり前に行われている。自殺が1割増えても3000人になる。確かに地震で2万人以上が亡くなったようだから大した数字でないと思うかもしれないが、やはり大した数字だ。
夏の電力不足で冷房が自粛になったり、計画停電で冷房が使えないと、いちばん弱るのはお年寄りだそうだ。
たまたま、本日、尊敬する高齢者の専門医の方と雑談していたら、熱射病で死ぬのはもちろんのことだが、冷房が普及する前は、高齢者がかなりの数で夏場に食欲が落ちて亡くなっていたそうだ。
昭和50年代くらいまでは、そんなことが当たり前にあった。今や生活保護の人でも夏場のエアコン使用が公認されているが、その頃は認められていなかった。
寒いので死ぬことは、着こんでいたりすると意外に少ないが、暑いので死ぬのは、ちょっと前のヨーロッパ(冷房が普及していない)をみても明らかだ。
その医師は、「弱いお年寄りが亡くなる分には厚生労働省は歓迎なのだろうけど」と言った。
実際、尊厳死とか自然死ということばが大手を振っている。
たとえば、胃ろうを作って、自然に亡くなる命を長らえさせることにも批判がでている。「ところが」とその先生が言う。「そういう人たちは、胃ろうを作ると何年も生きると言って批判している」と批判する。確かにそうだ。胃から栄養が入れば、何年も生きられる人を、自発呼吸もしていて、意識もはっきりしている人を飢えさせて殺すのが自然死なのか?
自然死というのなら、もともと医療を受けなければいい、血圧の薬も与え、さまざまな形で医療を与え、不自然な形で生きさせておいて、最後だけ自然にというほうが不自然死だという先生の批判は私もそう思う。
話はそれたが、夏場にお年寄りが当たり前に死ぬより、あるいは貧しい人が淘汰されるより、東京に原発を立てるほうがましだと私は思う。
東京に原発がなくても、上記の地域に住むような人は停電もないし、猛暑でも死なないで済むのだろう。そういう命の選別は勘弁してほしい。
原発はなくていいというきれいごとを言う方は、そういうことにどういうお考えをもつのか聞いてみたい。
若い人間が少しでも放射線を避けたいために(たとえば本日問題になっている水だって、飲んで死ぬ確率は宝くじに当たる確率より低いはずだ)、高齢者が犠牲になる。若い命は尊いが、年寄りは要らないという発想は悲しい。確かに若い人間には未来があるだろう。でも、年寄りだって、これまで日本を支えてくれた恩があるはずだ。だから、私は高齢者の専門医をやめないし、認知症で昔とすっかり変わってしまったお年寄りだって愛しい。
で、家に帰ると、水が安全でなくなったと、パニックになっている。1年、浄水器のフィルターを換えていなかったので、換えようとすると、ヨドバシの秋葉原で売り切れで錦糸町に走る。
駅の下のスーパーでは、水はとっくに売り切れ。卵もなければ、ハムもない。
ところが茨城県産のものは出荷停止になっていないものもまったく売れ残っている。
原発のこれだけひどい二次被害をみると田舎に押し付けるのはもうやめるべきだと本気で思った。
東京の人間ができることというのは、やはり原発を受け入れることではないのか?
ガソリンについてはスタンドに勤めている方から便乗値上げではないという話がきた。
計算してもその通りと思う。実は、私自身、日本の商売人(悪い意味で使っている言葉ではない)というのは、本当に良心的と思う。
アテネオリンピックに招待されて行ったときに、ホテルが一泊20万円だったそうだ(招待した人から聞いた話だが)。外国は本当に資本主義で、足りなければすぐに値上げするし、余っているとものすごくディスカウントする(ホテルなどがいい例だが)。日本でもあまっているとディスカウントはありえるが、足りないからといってそんなに値上げをしない。
今回の震災でいろいろなものが品薄になっていて、ネット上などでは値上げになっているものもあるようだが、普通の店ではなくなることはあっても値上げはほとんどない。これは大した商道徳だ。
計画停電は当初の予定の荒川区を除くというだけでなく、足立区もやっているそうだ。
いっぽうで、
「東京の3/14(月)15時にアップされた表と3/17(木)1時にアップされた表を比べると、
・大田区第4(北千束、石川町)
・世田谷区第4(東玉川、成城、玉川田園調布等)
・杉並第1(善福寺等)
・練馬区第1(大泉、石神井台、大泉学園等)
・目黒第4(八雲、大岡山、千束、自由が丘、緑ヶ丘等)
が、理由もなく計画停電エリアから対象外地域となり、そのことは東京電力さんも認識していると聞きます。」(以上引用)
という話も聞いた。
こんなときに、こんな露骨な差別をやっていいのだろうか?上記は東京の人ならほとんどの人が知っている高級住宅地ばかりだ。
逆に自分の住んでいるところが高級住宅地と思っている人で、それが上記に入っていない人は焦るかもしれないが。
原発が本当にいるのかという話。
どの程度、電気なしで我慢できるかによると思う。
今、どこにいっても薄暗い。今は気が張っているからいいだろうが、うつ病が増えないか心配になるレベルだ。実際、間接照明のヨーロッパやアメリカでは、冬場だけうつになる季節うつ病が多く、光療法が当たり前に行われている。自殺が1割増えても3000人になる。確かに地震で2万人以上が亡くなったようだから大した数字でないと思うかもしれないが、やはり大した数字だ。
夏の電力不足で冷房が自粛になったり、計画停電で冷房が使えないと、いちばん弱るのはお年寄りだそうだ。
たまたま、本日、尊敬する高齢者の専門医の方と雑談していたら、熱射病で死ぬのはもちろんのことだが、冷房が普及する前は、高齢者がかなりの数で夏場に食欲が落ちて亡くなっていたそうだ。
昭和50年代くらいまでは、そんなことが当たり前にあった。今や生活保護の人でも夏場のエアコン使用が公認されているが、その頃は認められていなかった。
寒いので死ぬことは、着こんでいたりすると意外に少ないが、暑いので死ぬのは、ちょっと前のヨーロッパ(冷房が普及していない)をみても明らかだ。
その医師は、「弱いお年寄りが亡くなる分には厚生労働省は歓迎なのだろうけど」と言った。
実際、尊厳死とか自然死ということばが大手を振っている。
たとえば、胃ろうを作って、自然に亡くなる命を長らえさせることにも批判がでている。「ところが」とその先生が言う。「そういう人たちは、胃ろうを作ると何年も生きると言って批判している」と批判する。確かにそうだ。胃から栄養が入れば、何年も生きられる人を、自発呼吸もしていて、意識もはっきりしている人を飢えさせて殺すのが自然死なのか?
自然死というのなら、もともと医療を受けなければいい、血圧の薬も与え、さまざまな形で医療を与え、不自然な形で生きさせておいて、最後だけ自然にというほうが不自然死だという先生の批判は私もそう思う。
話はそれたが、夏場にお年寄りが当たり前に死ぬより、あるいは貧しい人が淘汰されるより、東京に原発を立てるほうがましだと私は思う。
東京に原発がなくても、上記の地域に住むような人は停電もないし、猛暑でも死なないで済むのだろう。そういう命の選別は勘弁してほしい。
原発はなくていいというきれいごとを言う方は、そういうことにどういうお考えをもつのか聞いてみたい。
若い人間が少しでも放射線を避けたいために(たとえば本日問題になっている水だって、飲んで死ぬ確率は宝くじに当たる確率より低いはずだ)、高齢者が犠牲になる。若い命は尊いが、年寄りは要らないという発想は悲しい。確かに若い人間には未来があるだろう。でも、年寄りだって、これまで日本を支えてくれた恩があるはずだ。だから、私は高齢者の専門医をやめないし、認知症で昔とすっかり変わってしまったお年寄りだって愛しい。
で、家に帰ると、水が安全でなくなったと、パニックになっている。1年、浄水器のフィルターを換えていなかったので、換えようとすると、ヨドバシの秋葉原で売り切れで錦糸町に走る。
駅の下のスーパーでは、水はとっくに売り切れ。卵もなければ、ハムもない。
ところが茨城県産のものは出荷停止になっていないものもまったく売れ残っている。
原発のこれだけひどい二次被害をみると田舎に押し付けるのはもうやめるべきだと本気で思った。
東京の人間ができることというのは、やはり原発を受け入れることではないのか?