朝の情報番組を見ていたら、相変わらず、京大の入試問題漏えい事件の話をしていた。

その中で、テリー伊藤氏が、知識の試験だけでなく、感性の試験もすべきというような意味の発言をしていた。さらに例の勝谷氏がそのほうが社会に出てから役立つという趣旨の発言を続けた。

ここで二つの意味で反論をしたい。

一つは、このカンニング男性がなんでカンニングをしたのかについてまったく理解していない点だ。

知識だけを問う問題であれば、わざわざ掲示板を使う必要はない。Wikipediaを含め通常の検索で十分だ。知識だけで解けないから、掲示板で、「人間の」助けを借りたのである。

全問マークシート(最近はさすがにちょっと変えたようだが)の勝谷氏の母校の早稲田やテリーさんの母校の日大と違って、京大や東大は考えさせる問題が出る。知識だけで解けないから、解ける人間の助けが必要である。そのためにこんな騒ぎになったという事情の理解がまったくない。

もう一つは感性が学力かという問題である。

確かに感性があるほうが受験学力よりよほど重要な職場はあるだろう。

テレビ局の制作などは、その典型だ。

だったら、彼らこそが、早稲田や東大を採らずに、日大の芸術や大阪芸大、あるいは高卒や、高卒で映画専門学校を出た人間を採ればいいのに、コネ以外に関してはものすごい学歴重視だ。

いっぽう、官僚にせよ、金融にせよ、一般的には、感性より、通常の学力や努力する才能のほうを重視する職場はいっぱいある。そういう際に通常の学歴のほうがよほどあてになるから、それを重視するのだろう。

もちろん、私は感性で合格ということは否定しない。

しかし、東大が、スポーツができる人間を体育一類、ルックスがいい人間を顔一類、感性がいい人間を芸術一類という形で、本来、日体大や早稲田の所沢に行く人間や芸能界に入る人間や、芸大に入る人間を採りだしたとしてそれをテリーさんや勝谷氏は素直に喜べるのか?

私の考えでは、むしろ感性がないけど努力という取り柄しかない人間をすくうために学歴というものはある。

本当に感性があれば、山下清氏のように学歴はいらない。

こういう席に乗じて感性はあるが、芸術の世界では食っていけない人間を、学歴で遇せよという理論に乗っていいのかと痛感した。

ところで、こういう勝谷氏やテリー氏の発言は、田舎の無知な人間が納得して、自分の子供は学歴はつけないくていいと思うだろうし、高学歴で、自分の子供に学歴が必要と思っている人間(私もそうだが)は花で笑っているだろう。

かくして、彼らの無責任な発言は格差を広げているという重大な事態(私はテレビしか見ない地方の貧乏な人にも学歴の大切さを説くがテレビにはつまらない奴として出してもらえない)に気づいているのだろうか?