昨日のブログで法律が不備なので、裁判官より政治家や役人が悪いとか、補足意見が立派なものだから、この裁判官は思想的に偏っていないとかいうご意見をいただいた。(私に言わせれば補足意見というのは、官僚的な逃げ以外の何物でもない。出世を目指す裁判官は情状面では検察の意見を全面的に取り入れ、判決では執行猶予を出すという判決をだす。これによって検察は顔を立ててもらったので、控訴をしないし、被告のほうも執行猶予がつくので控訴をしない。これによって「正しい」判決を出したことになって、出世しやすくなるらしい。それと同じで、ひどい判決を出して、「まともな」補足意見をつけるのはエリート判事の常とう手段である。法律の専門家と称するならもっとたくさん、しょうもない判例を読むといい)

あと、感情でものを言うのは、本当に精神科医なのとかいうバカからのメッセージももらった。感情を出さないと治らないとかカウンセリングがうまくいかない患者もいるのは精神科医としては常識である。感情を出さないで薬だけで治るなら、精神科医はいらない。内科だけでやっていればいい。

私は自分では大したことはないと思っているのだが、実績の上では、かなり成績のいい精神科医なのは、感情的であるという部分も大きいのだ。

明らかに無理な憲法解釈をして、憲法が変えられないから、判例を出すことで自衛隊を実質合憲にしたり、違憲状態という判決を出しながら、選挙結果は有効という、「現実的な」判断をする裁判所や最高裁が、今回に限り、「法にしたがった」判断をするということがいかがなものかと私は言いたかったのである。

司法の独立とかいうのは、残念ながら建前である。特に最高裁判所に関しては、指名は内閣が行うし、国民審査も受けないといけない。法律万能主義でなく、民意を反映させるという考え方が背景にあるからだろう。誰がどう考えても無理筋の小沢裁判に関しては、起訴しただけで「推定有罪」にするくらい民意にこびを売るのに、国家財政の危機の状況下で、法の不備を探せば、脱税も認めますという判決を出した裁判官のセンスを疑うことは、そんなに異常なことだろうか?しかも、二審で脱税認定をしているということは、解釈のしようによっては脱税ともとれる案件なのである。二つの解釈に分かれた時に、国家や国民の利益より、法律に沿っているかどうかを重視するような裁判官を、国民としては納得できないとして、国民審査で落とすことが、民主主義の国として悪いことなのだろうか?

法律バカの人たちは、それでも法律に沿っていないと法治国家と言えないという。そのくせして、パチンコ屋やソープランドのような非合法黙認産業にも目をつぶる。

感情論が許されないことも許されることもあるだろう。林真須美の裁判にしても、死刑という判決を出しているのに、証拠は、どう考えても甘い。私にしても心証としてはやっている気がするが、このレベルの状況証拠で死刑にするというのは腑に落ちない。

残念ながら、裁判というのは、それでも「民意」の要素は入る。とくに今回のような経済事犯の場合、しかも犯人がわかっている場合(林真須美の場合は、犯人かどうかで争っている)の刑罰をどうするかというような場合に、民意が入ることがそんなに問題なのだろうか?

実は、今回のブログでは、私の意見に賛同する人より、法律のプロを証する反対意見のほうが多かった。

こっちのほうががっかりした。

期せずして本日はエンジン01のオープンカレッジで政治の問題の講師のピンチヒッターを務めた。加藤秀樹さんの代わりという大役で、名前だけが同じという情けないポジションだ。

その中でも小沢裁判のことが話題になった。

おそらく無罪判決が出るであろう小沢氏に検察審査会(小沢嫌いのジャーナリストが入っていて起訴相当と彼が主張したそうだ)が起訴相当という判断をし、その尻馬に乗って、小沢氏が犯罪者のような扱いをする仲、このような判決は、「法に則ったもの」ですむのか?

法律至上主義者の方々は、都合のいいときだけ法律至上主義者になるのはやめてほしい。