胃がんの末期で、ほとんど食べられないのに、点滴をしようとしたら血管がほとんど出ない(高齢者ではよくある話だ)、打つと痛がるし、さらにぐったりしてしまうというケースの相談メッセージを受けた。

このケースは日付も毎日言えるくらい、頭がしっかりしているそうだ

しかも本人が毎日のように「死にたい」と訴えるとか。

こういうケースを診ていると、確かに医者としてはやすらかに点滴をしないであげたほうがいいのではないかと思ってしまうことはある。

実は、点滴というのは衰弱した高齢者には楽でないものらしい。実際、検査データを正常に戻すほどの補液をすると、大抵の高齢者には浮腫みが出る。この浮腫みは心臓が処理しきれない水分ということで、こういうものが出るときには肺にも水が貯まることが多い。この状態がおぼれた時と同じくらい苦しいとのことだ。いっぽう、脱水状態が進んでくると、徐々に意識がなくなっていくので、比較的楽に死ねるようだ。

このメッセージの方のご質問は、痛み、苦しみの少ない栄養補給ということだが、一つは胃瘻といって、鼻から入れる栄養チューブを代わりに直接胃に入れるというものだ。簡単な手術のときは痛いが、その後は鼻のチューブのような違和感も少なく、また喋ることや飲みこむことの不自由もないので、口から食べたいときは食べられる。栄養も十分なものも入れられる。

ただ、胃がんの末期ということで胃がどのくらい機能しているのかわからないし、胃を取ってしまったという場合は、よけいに使えない。

もう一つは中心静脈栄養と言って、鎖骨のところか首のところにある太い静脈にずっと残しておけるカテーテルをいれて、そこから点滴する。かなりの高カロリーの点滴もできるし、これも入れるとき以外は、そんなに痛みも残らないようだ。

昭和天皇の崩御のときも、医者の間ではなんでやらないんだという声が強かった。でも、万が一失敗して気胸を作ると痛いし、何らかの失敗を恐れたのか、主治医団が高齢で、この手技をよくわかっていないのではという話を聞いたことがある。

ただ、私の聞くところでは、90代という高齢者にこのレベルの医療をやらないということも聞いている。事故を恐れてかもしれないし、高齢者に高度医療をやらないという原則なのかもしれない。

そういう可能性があるのかと医者に聞いたらとしか言えなくて申し訳ない。

人口の高齢化、長寿化が進んで医療費の無駄が問題にされるが、やはり本当に高齢になると医療は手控えられる。ある調査では、85歳以上まで生きると亡くなる前1か月の医療費(これが一生分の半分とかもっとだと言われている)が3分の1程度に落ちるとされている。

さらに高齢になって、将来死ぬのがわかっている、治らないのがわかっている患者さんを苦しめないで、そのまま死なせてあげる尊厳死が大事という声も高まっている。

ただ、こういう問題というのは、実は一筋縄でいかない。

「生きていても仕方がない」と言っていたかなり高齢の患者さんが、うつ病の薬を与えるといきいきしてきたり、口まで食べ物をもっていっても、気分が悪いとか食べようとしない患者さんが、点滴をして脱水が改善したり、抗生剤の投与で肺炎が改善して見違えるように元気になった姿をみると、もう終末期なのだから、無駄な医療をやめようとはなかなか思えない。事前の段階では、何が無駄で、何が無駄でないかわからないからだ。

死ぬのがわかっている患者さんの命を延ばすだけという言い方もあるが、世の中で死ぬのがわかっていない人などいない。結局、すべての治療は延命治療なのだ。確かに20歳の寿命を80歳に伸ばすなら延命治療とは言わないだろう。ただ、85歳の人を90歳に伸ばすのがいけないというのなら、まさに老人差別だ。

生前の意思という考え方もある。

私たちの年代(50代)でも、延命治療はやらないでほしい、寝たきりになったら治療はいらないという人が多い。

ところが、いざ、その年になってみると、あるいはいざ寝たきりになってみると、やはり生きていたいということは珍しくない。「お前、昔、寝たきりになったら殺せといっただろ」と突き付けるような残酷なことは私にはできないし、「自己責任」とも思わない。

ボケる前は、ボケたら殺してくれといっていたのが、ボケてしまうと生への執着を見せる人もいる。

ボケてからの判断など責任能力がないといえばそれまでだが、ボケてしまうほうが、子供返りする分、よけいに死ぬのが怖くなる人も珍しくない。だから意外にボケて徘徊しても車に轢かれたりしないし(私がこの20年以上で診た患者さんについては一人もいない)、安全の感覚が残っていることも多い
。子供のころ、ものすごく死ぬのが怖くて眠れなかったという人も少なくないだろうが、実際、ボケてくるとそれに近いものになる人もいるのだろう。

そんな人をどうせぼけているのだからと、肺炎やインフルエンザになっても治療しないということが許されるのだろうか?

少なくとも、尊厳死というのは人が考えるほど単純なものではない。

いっぽうで、それをしてあげればいいじゃないかと思えるケースも確かに存在するのがやっかいだが。

全員に同じ基準をあてはめようという西洋医学的発想の限界がここにあるように思えてならない。