昨日のブログで、大阪を大坂と書いてしまった。これは単なる変換ミスで、どういうわけか(Windowsを疑っているが)その前の返還で大阪となっているので、油断をすると大坂と出てしまう。前は、それについてボロクソに書いたメッセージをいただいたが、今回の人は私が使い分けているのかを聞いて下さるような心づかいの人であるが、校正者を雇う金がない原稿料タダのブログで、事情を拝察願いたい。

あと、テレビ的思考術から脱却した思考の仕方の本がないかという質問。

基本的には、『テレビの大罪』のベースになった『人生の軌道修正』という新潮新書の本がこれにあたる。『テレビの大罪』はテレビでは嫌われるが、いまや新聞社がテレビ局に食わせてもらっているせいか、新聞でもまったく無視される(その点、『週刊フジテレビ批評』は例外的に偉い)。

ただ、地方の人に読んでほしかったら、とある地方紙の社長から、飲酒運転厳罰化を批判するようなことを書いたものをほめると何を言われるかわからない地方の事情があることをわかってほしいと言われたことがある。地方がそのせいで平日の夜は仲間とお酒が飲めなくなっているのに、地方のモラルパニックのほうがひどいという実情に唖然とする。

さて、本日はものすごく勉強になるメッセージをいただいた。

かつては「早稲田では一番出来の悪い助教授を教授にする」「早稲田の教授は上の言うことばかり聞いている、出来の悪い学者」(1月4日の先生のブログ)だったと言われると、政経・法・商ではそうかも知れませんが、東洋哲学では津田左右吉・福井康順・栗田直躬ら先覚者をはじめとして、卓越した研究を続けてきたようです。極めてマイナーな分野ではありますが、このような学究もいることは分かって頂きたいと思います。(引用終わり)

というメッセージもいただく。まさにその通りであろう。教授会で教授を選ぶシステムにすると、いい教授を選ぶ伝統があれば、教授たちも自信があるし、また伝統をけがしたくないと思うからいい教授が選ばれるが、クズが上のゴマをすって教授になる伝統をもつと、ひがみや自信のなさから、同じようカスを選ぶ伝統が起こる。私の見るところ、東大でも工学部などは優秀な人が教授に選ばれる伝統があるようだが、教育学部(苅谷先生のような例外はいるが)や、医学部(これも一時期は尊敬できる教授も選ばれることがあったが、最近はまた納得のいかない選考結果になっている)は、似たような縮小再生産が起こっている。東大のような学校の場合、本当にできる人間は官僚や民間に行ってしまい、ろくに就職できなかった人間が大学に残る時代があったらしいが、それを自覚しているせいか、外部で活躍した人を教授にしないで、内部に閉じこもっている人間を教授にするということも起こっていたらしい(今は知らないが)

「早稲田は」と決めつけたのは悪かったが、私は教授選で教授を選ぶというのは、いい加減やめるべきだと思っている。アメリカのようにディーンに力をもたせるとか、まともな外部評価もふくめた選考委員会を作るとかしないとクズが教授になりやすい。そうでなければ、全国で80も大学医学部があるのに、精神科の教授選で精神療法を専門にする教授が一人も出ないのはおかしい(ただ、精神分析の世界では、英文の論文を書いている研究者はほとんどいないのが現状だが。その点では、数人しかいない例外のうち私を含めて二人もいる国際医療福祉大学の臨床心理の大学院は、自慢できると思っている)。

やはり性善説で教授選考をするより、最悪の場合に備えて、優秀な人間が教授になれるシステムを作ることが大事だろう。

もう一つは、どんな学者が優秀かと考える特性もあると思う。

前も多少書いたが、日本では、物理学や数学は仮説を立てる人間を素直に認める傾向があるが、こと医学に関しては、仮説をいう人間より、外国の研究の追試に近い研究や旧来の伝統に則った研究ばかりが認められる。だから物理学者や化学者がノーベル賞を取ることがあっても、医学部出身の人間がノーベル賞をとったためしがない(山中先生には期待しているが)。そして、近藤先生の乳房の部分切除にしても日本で普及するまでに15年もかかるような体たらくが起こる。糖尿病治療でも次々とタイトなコントロールはまずいという大規模調査の結果が出ても無視や結果への批判ばかりが起こる。

老年医学の世界でも同じことで、太めの人が長生きしていること、薬の使い過ぎがまずいことなど、いろいろな疫学調査が無視され続ける。日本老年医学会の専門医の少ない地域のほうが平均寿命が長く、老人医療費も少ないという笑えないデータもあるが、なぜかこの学会の専門医は厚生労働省が標榜可能にしている。

私は学歴論者のように思われているが、アホかリコウは結果で決まると思っている。医者の世界にいる以上、コストパフォーマンスがよくて腕がいいほうがリコウに決まっている。老年精神医学の世界で、料理の鉄人のような番組をやってくれれば、そう負けない(一人や二人例外がいるのは実は自分でもわかっていて、いまだに師匠に勝てないが)自信がある。これは学歴の問題ではない。

ただ、一般的にアホが教授を選ぶとアホを選ぶし、リコウが選ぶとリコウになる。ただ、たまに学問の世界ではリコウでも、人間的にアホでゴマすりが見抜けないことがある。だから、教授選で教授を選ぶのがまずいのだ。

実はこれを改めるのには学校教育法の59条を変えないといけないらしい。本当はどうとでも読めるのだが、大事なことを決めるのは教授会という縛りがあるので、人事権まで知らない間に教授会で決められ、経営委員会や理事会が機能しないことが多い。

民主党は規制仕分けをするようだが、クズ法律のしわけもしてほしいと痛感した。

ところで、学問の世界を離れたら、やはり洒脱な人に憧れを感じる。

中島らもさんは灘を出て、大阪芸大(卒業生を見る限り、ここはいい大学のような気がする)にいったそうだが、やっぱり賢い。

私がそのファンだということを喜んだメッセージをいただいたが、私だってすごい人は尊敬する。

何度も言うが、大人が学歴を大事にするふりをしないと子供が勉強をしないから学歴の大切さを言うのであって、学歴で人を見るのなら、東大の医学部を離れるようなことはしないだろう。