私がものすごく前の本で、高卒と大卒では生涯年収が3倍にもなってしまうので、勉強しろと書いた話について、それが格差を作っているのではないかというメッセージをいただいた。

現実には、子供に勉強をさせるために極端な例をあげただけで(本日も受験は要領に書かれている内容と、新聞のインタビューの矛盾をつくメッセージをいただいた。あの本は景気のいいことばかり書いているので、一度、絶版にしたことがあったが、その後、書いてある内容以上に、勉強をやる気にする本と言われたので、それを文庫にして再出版したいきさつがある。正確な受験勉強法を知りたい人は、『新受験勉強入門』のシリーズを読んでほしい)、確かにその本を書いた当時は、一流大学を出て、大手の金融機関につとめると生涯年収は5億円といわれていた。いっぽう、メーカーでは2億円くらいがざらで、高卒の人が中小企業に勤めた場合は、大手の金融機関に勤めた場合と、生涯年収は3倍になるのは事実だが、同じ会社で比べた場合は、高卒と大卒なら1,2割くらいしか違わない(とくにメーカーの場合)というのも事実だった。

その当時は、今のようにインターネットがなかったので、きちんと調べずに週刊誌がいろいろな会社の生涯年収について書いていたので、そのままその記事を使わせてもらったし、また子供に勉強させるのが目的だったので、多少大げさに書いてもいいかと思ったものだ。

ただ、当時は、まだ一億総中流といわれていた時代だし、また累進課税も今と比べ物にならないくらい厳しかった。

実感として、いい大学に入れなくても、そこそこいい暮らしができるということが薄々わかってきて、ぼちぼち勉強をしない子供が増えてきた時代とも言える。これは先進国の宿命ともいえることだ。ただ、それではまずいという感覚は当時から少しあった。

さて、格差社会というのは、どのくらいから格差社会というのだろうか?

金持ちと貧乏人の差が5倍とか10倍くらいまでならなんとか許容できる気がする。

たとえば昨日は林真理子先生のおごりとはいえ、けっこう高いお寿司を食べた。

それなりに金を稼いでいる人間がぜいたくをすること自体は悪いことだと私は思わない。むしろ、金持ちが金を使わない社会のほうが、景気には悪い。

しかし、いっぽうで、同じ国に飢えている人間がいることがわかっていると、素直に贅沢ができない気分になる。悪いことをしているわけでないのに、おいしくご飯が食べられない。

要するに、格差が小さい社会、福祉がしっかりしている社会、きちんと税金をたくさんとってくれる社会でないと、自分が稼いだ金でも、使うことに、多少のうしろめたさを感じてしまうのだ。

禁煙している人の前では、タバコが吸いにくいとか、アルコール依存で飲んではいけない人の前で酒を飲むのは気がひけるのと似たような感覚だ。過去の日本人にはそういうものがあった気がする。

そういうのが嫌だから、格差を小さくしてほしいし、福祉もしっかりしてほしいし、もっと税金をとってほしい。貧しい人から消費税をとるより、金のある人間からとるのも当然だと思う。

民が飢えているのに贅沢をしている金正日に多くの人が不快になるのと同様に、格差がある社会のほうが贅沢をしている人間に不快感がもたれてしまう。

たまたま自分のブログについてネットで調べていたら、うっかりボロクソに言われていることに気づいた。

もちろん、私がクズだから悪く言われるのだろうが、これだけ口汚くののしられることを見る限り、彼らの自己愛も満たされていないのだろうし、おそらくは負け組の人なのだろう。

格差の小さい社会の頃は、こういう手合いの人が少なかった気がする。

私が格差の小さい社会に戻ってほしいというのは、偽善でなく、そういうのが嫌いな社会なのだ。好きな人は、自由競争を煽ればいいが、嫌いな人だって、もっと堂々としていいように思う。

あと、もう一つ気づいたが、日本の経済学部というのは、経済のことをわかったように勘違いさせて、それを勉強してこなかった人の経済に対する考え方を否定するような人間になるような教育をするところのようだ。

だから、こんなところからはノーベル賞はでないのだろう。

人々が完全な情報をもつとか、すべての人が理性的な判断をするとかいうありえない仮定での理論なのに、それに反することをいうと経済を知らないなどと平気でのたまう。

でも、こんなものを信じている人でビジネスの世界で成功した人を私は知らない。

起きていることはすべて正しいという勝間さんの名言のほうがはるかにましな考え方だと思えてならない。