船橋の小学校時代の同級生からメッセージをいただいた

私が子供時代いじめられていたことを本に書いていることを気にしておられるようだが、実は、私は千葉県船橋市にいたころは、私の小学校時代、もっともよい思い出の地である。

坪井先生という先生にもよくしていただいたし、仲間のようなものができて、小学生のくせに新聞部を作ったりした。算盤がめちゃくちゃできるようになったのもこの地だ。西日本の模試で1番をとったときより、小学3年生で算盤3級になったほうがよほど嬉しかった。

ということで、私がいじめられたということを書いたことで、船橋のころの同級生の皆様に不快な思いをさせているなら素直に謝罪したい。(ほかの学校ではかなりいじめられたが)

昨日のブログで公務員の肩をもつことになったが、批判的なものもあるし、感謝されたものもあるが、どれも書き方に礼節があり、知性を感じさせるので嬉しい。喧嘩腰の人たちは、とにかく文章に品位が感じられないものだからだ。

さて、私としても自分のいうことが正しいと言うつもりはない。ただ、公務員の給料を下げると、おそらく民間の給料が下がるという予想は当たりそうな気がする。だから、給料が下がったという形をとるより、給与体系を見直したという形をとるべきだと思うが、おそらく政治家は人気取りのために給与を下げるという形をとるし、それができたら鬼の首をとったような態度をとるだろう。

もちろん、この予言が当たるとは限らないが、これまでの流れを見る限り、そう思えてならない。

別のメッセージで金持ちに金を持たせたほうが消費が増えるというのもあったが、これまでの流れを見る限りそうなっていない。累進課税が厳しかった時のほうが、はるかに金持ちは金を使っていた。

日本が格差社会に向かない社会だと思う理由は、日本の金持ちは金を貯める以外に金の使い方を知らないということがある。消費もしないし、寄付もしない。こんな奴らに金をもたせるくらいなら、税金で国が召し上げて、貧しい人間にばらまいたほうがよほどましだ。

私が貧乏人の味方のようなことを言うのは、私が聖人や偽善者なのではなく、ケインズも言うように貧しい人ほど消費性向が高いからだ。

さて、なんとなんと、またまた本題に入る前に、こんなにぐたぐたと書いてしまった。

本日のお題は森田療法的発想だが、私の昨日であれ、本日書いてきた内容がまさに「反」森田的発想だ。

つまらないことにこだわって、本題に力が発揮できない、悩まなくていいことにぐちぐち悩んで、本当に悩むべきことに悩みがいかない。

こういう人について、本題のほうにこだわる、悩むべきことを悩むように仕向けるのが森田的発想である。

顔が赤いから人に好かれないと思っている人に、顔が赤いことを治すことに悩むより、対人関係がどうなればよくなるかを悩めというのが森田的発想である。

これができそうで、できない。

しかし、人が瑣末なことでぐちぐち言ってくるのに、こんなことをぐちぐち言うより、もっと悩むべきことがあるだろう、というような目で見ることができるようになったのは確かだ。

少なくとも森田は私の味方ではある。
の昨日であれ、本日書いてきた内容がまさに「反」森田的発想だ。

つまらないことにこだわって、本題に力が発揮できない、悩まなくていいことにぐちぐち悩んで、本当に悩むべきことに悩みがいかない。

こういう人について、本題のほうにこだわる、悩むべきことを悩むように仕向けるのが森田的発想である。

顔が赤いから人に好かれないと思っている人に、顔が赤いことを治すことに悩むより、対人関係がどうなればよくなるかを悩めというのが森田的発想である。

これができそうで、できない。

しかし、人が瑣末なことでぐちぐち言ってくるのに、こんなことをぐちぐち言うより、もっと悩むべきことがあるだろう、というような目で見ることができるようになったのは確かだ。

少なくとも森田は私の味方ではある。