昨日のブログに対して、早稲田の学生さんから内部進学者の学力の低さと、アメリカではバスケットボールで大学進学しても、成績不良なら試合に出られないシステムを教えてくれた。
各々の学校の名誉より、国家やほかの国民への影響を考えたら当然のことだ。
昔なら大学卒のスポーツ選手を尊敬できたが、今は完全に崩壊している(ただ、長嶋氏などは相当の低学力だったといううわさもあるが)。
ノーベル平和賞をとると、その人が国内法に違反していても釈放されることになるのだろうか?
ノルウェーの委員会がずいぶん信用されているようだが、たとえばイスラムの法理に背いて、キリスト教的な平和活動をする人は平和賞をもらえるだろうし、逆のことをする人はまずもらえないだろう。
知らない間に文化に対する干渉をやっている可能性がまったく無視されているが、日本はそれでも脱亜入欧なのだろう。
法律を決める権利をもてなくなったら、主権国家とはいえない。フセインだって独裁者だったから国が潰されたのでなく、大量破壊兵器をもっている疑いで(これだって内政干渉とは思うが)責められたのである。キャッチアップのためには独裁が有効な手段なのだったら、発展途上国は独裁をする権利だってあるように思えるが。
ノーベル賞だって、人が決め、また自然科学の賞でさえ、どんな研究がいいというのは審査員の価値観である。おそらくレフリーに日本人やアジア人は入っていないだろう。
しかし、それを通じて、人気を与え、ほかの国の世論を変えていく。
たとえば、中村修二氏のように日本の金で研究して、その技術を外国に持ち出した人にノーベル賞を与えると、その行いが正当化される。逆に日本の技術者がアメリカから試料を持ち出したくらいでスパイで訴えられるし、その人がどんなにいい研究をしても、アメリカの横やりでノーベル賞は得られないだろう。
しかし、日本人は、ノーベル賞が偉いものと思っているから、行いの是非はおそらく問うまい。
人気至上主義の国の世論を変えるのはちょろい。
日本シリーズも巨人がでないとかで、最初の2戦は全国放送がないらしい。NHKすら相手にしないのだ。
人気のあるチームを出さないと野球の世界がほろぶよという恫喝としか思えない。
政治家の世界はすでに人気至上主義となって久しいが、人気より実力という原点に戻れないと、スポーツに限らず、外国との勝負に勝てるような気がしないが。
各々の学校の名誉より、国家やほかの国民への影響を考えたら当然のことだ。
昔なら大学卒のスポーツ選手を尊敬できたが、今は完全に崩壊している(ただ、長嶋氏などは相当の低学力だったといううわさもあるが)。
ノーベル平和賞をとると、その人が国内法に違反していても釈放されることになるのだろうか?
ノルウェーの委員会がずいぶん信用されているようだが、たとえばイスラムの法理に背いて、キリスト教的な平和活動をする人は平和賞をもらえるだろうし、逆のことをする人はまずもらえないだろう。
知らない間に文化に対する干渉をやっている可能性がまったく無視されているが、日本はそれでも脱亜入欧なのだろう。
法律を決める権利をもてなくなったら、主権国家とはいえない。フセインだって独裁者だったから国が潰されたのでなく、大量破壊兵器をもっている疑いで(これだって内政干渉とは思うが)責められたのである。キャッチアップのためには独裁が有効な手段なのだったら、発展途上国は独裁をする権利だってあるように思えるが。
ノーベル賞だって、人が決め、また自然科学の賞でさえ、どんな研究がいいというのは審査員の価値観である。おそらくレフリーに日本人やアジア人は入っていないだろう。
しかし、それを通じて、人気を与え、ほかの国の世論を変えていく。
たとえば、中村修二氏のように日本の金で研究して、その技術を外国に持ち出した人にノーベル賞を与えると、その行いが正当化される。逆に日本の技術者がアメリカから試料を持ち出したくらいでスパイで訴えられるし、その人がどんなにいい研究をしても、アメリカの横やりでノーベル賞は得られないだろう。
しかし、日本人は、ノーベル賞が偉いものと思っているから、行いの是非はおそらく問うまい。
人気至上主義の国の世論を変えるのはちょろい。
日本シリーズも巨人がでないとかで、最初の2戦は全国放送がないらしい。NHKすら相手にしないのだ。
人気のあるチームを出さないと野球の世界がほろぶよという恫喝としか思えない。
政治家の世界はすでに人気至上主義となって久しいが、人気より実力という原点に戻れないと、スポーツに限らず、外国との勝負に勝てるような気がしないが。