相変わらず、私のことを論破したとか、私が逃げているとかうるさいメッセージが届く。

そこまで私と議論をしたいのなら、私の講演会か何かに来られたらいい。通常の講演会では、質問を受ける時間が用意されているが、日本人の特性なのか、あまり質問が出ない。ただ、ときに質問をされる方の中には、「今回の講演の内容とは関係ないのですが」と私の著書の内容などの質問をする方もいるし、私の著書についての批判をする方もいる。それでも公衆の面前で、その手の質問にきちんと答えなかったことはないし、しどろもどろになったこともない。

論破したと自信をもっておられるなら、堂々と出てこられたらいいと思う。これはほかの私の批判者についても言えることだ。とくにテレビにでて、欠席裁判のようなことをする勝谷某氏を私は心情的に許すことはできない。堂々と論戦をするつもりなら、彼の出る番組でも講演会にでも呼んでいただければ、いくらでも応じる覚悟はある。

さて、拙著『大人のケンカ必勝法』でも書いたが、自分のほうが正しいに決まっているというような主張をする人に論戦で勝つのは比較的たやすい。反証を一つ挙げればいいからだ。しかし、「~~の可能性がある」という人については、可能性がゼロである証明はとても難しい。

官僚答弁と言われるかもしれないが、知的レベルの高い人は、そういう点でヘマをしない(感情的になるとヘマをすることがあるが)。文章の書き方で知的レベルが知れる(もちろん、著書の場合、ライターに書いてもらうことがあるし、編集者がもっと断言調に書いてくれないと売れないという要望を出すので、こちらもうっかり断定調に書いてしまうことがあるが、こういう本はツッコミを入れられると弱い)。メッセージやブログの場合は、自分で書いているから、相手の知的レベルは大体想像がつく。この人の場合なら講演会で私に質問をされても、恥をかくのがオチと大体読める。

ただ、こういうメッセージは頭にくるが、学べることも多い。

たとえば、私は日本のマスコミや識者と称する人が北朝鮮を批判することに批判的だ。自分より強い国とかライバルと批判するのと違って、明らかにダメな国の体制だの、やったことを叩いたところで、建設的と思えないからだ。

しかし、今度のようなことがあると、どんなにバカな人にでもバカにされると悔しいという人間心理の当たり前のことに気づく。だからこそ、感情に流されず、北朝鮮を叩くより、アメリカや中国にどう挑んでいくかを考えることの難しさを痛感する。ついでにいうと、雑魚を相手にするなというメッセージもたくさんいただいたが、やはり相手にしてしまう衝動が抑えられない。理屈でわかっていても難しいというのは、心の治療を行う者にとっての鉄則だが、自分のことは難しい。

とても勉強になった。

さて、私自身が、このメッセージの主のように、絶対的真実を信じていた時期があったことも正直に告白したい。

答えがないというかあいまいな国語のような科目が嫌いで、数学や物理のように答えがはっきりした科目で点を取ろうと思っていた。高校時代、哲学書などを読みふけっていた人もいたが、何がいいのかさっぱりわからなかった。

今でも、難解な哲学書を読む気はしないが、多少は哲学することもある。

今回も哲学するきっかけになった。

私がこの人が主観的に論破したと思えるならそれは幸せだし、それを大事にしてほしいと書いた。

もちろん、これは嫌味もこもっているが、本音でもある。

精神科のカウンセリングの仕事の一つに、患者さんの主観的な世界を変えていく、可能なら幸せと思えるように、悲観的な場合はそれをもう少し楽観的とか、あるいは楽観的な可能性もあり得るという風にサジェスチョンしていく。私の学んできた、intersubjectiveの理論などはそういうところがあるし、認知療法などでもそういう考え方をしている。

たとえば、孤独な人であれ、貧しい人であれ、リストラされた人であれ、それなりに明るい未来が信じられるようにとか、今の人間関係などの中に幸せを見出せるように、心のありようを誘導していければ、それなりにその人の心が楽になるからだ。

ところが一方で、精神科の医者は、主観的な幸せをぶち壊すようなことも平気でやる。

たとえば、自分が神と信じるような妄想をもち、3畳一間のぼろぼろの部屋で孤独でも平気な人、びっ質的な幸せ以上に、自分が神である幸せと自信に満ちた人に、薬を飲ませて、現実に連れ戻そうとする。

もちろん、統合失調症の妄想というのは、こういう幸せな状態とは限らない。むしろ、被害妄想などで苦しんでいる人も多い。だからこの病気の人が、人を殺すことばかりがクローズアップされるが、実際はその妄想の苦しさから自殺する人のほうがはるかに多い。

こういう人は薬で楽にしてあげても、それほど疑問を感じないが、幸せな妄想でいつもヘラヘラ笑っていられる人に薬を与えることは僭越かもしれないとは思う。

もっと主観的に幸せな病気に躁病というのがある。こういうときは、このメッセージの主のように、自分が天才と思えるし、なんでもできるように感じるし、自分ほどもてる人がいないなどと思うこともある。

ただ、そのために勝てない相手に喧嘩を売ったり(この人もそういう状態なのかもしれない)、損得を顧みずに投資をしたり、気が大きくなって、人に奢りまくったり、その他、借金を作ることや、法律より自分のほうが正しいと思って犯罪を犯したりということもある。

だから家族や周囲の迷惑を重視して、ついつい薬を与えてしまう。すると、多くの場合、その後の鬱状態をみることになり、あれだけ幸せそうにしていた人が、ものすごく自分を責めたりする姿をみると、自分のやっていることは何だったのだろうと思うこともある。

もちろん、躁病の場合も人間というのは不思議なもので、薬を使わなくても、いつかはその状態が治まり、そのうち鬱になるのだが、薬を使うと、その幸せ状態が余計短くなるということなのだが。

主観的な幸せが大切と言いながら、ありもしない客観を押しつける、あるいは、世間の常識に近いところへ連れ戻そうとする矛盾が、精神科の仕事にはある。

これは、とくに私がたまたま、客観的な真実などありはしないと考える立場だからかもしれない。客観の世界を信じることができれば、妄想の世界や躁の世界にいる人を客観の世界に戻すことは絶対的な正義になるからだ。

ただ、私とて、客観的な真実や絶対的な答えはないと考える立場であるが、それを目指す努力は大切だと考えていることも付け加えておきたい。

ニュートンの考える真実より近いものを求めてアインシュタインが現れたが、それが最後の答えだと考える物理学者はほとんどいないだろう(学校の物理の教師レベルならそうかもしれないが)。

経済学者だって、人々が合理的に行動するとか、完全な情報をもっているというありえない前提をどう崩していくかに苦労を重ねている。しかし、物理学と違って、これをちょっとかじった人間は、これが経済の正解だと簡単に思ってしまう。

数学というのは、絶対の答えを求める学問だと思われがちだが、ちょっとレベルが高くなると、「条件」というものが重視されるようになる。「条件」が違えば、答えが違うという当たり前のことを考えられないから、自分のことを絶対に正しいなどと思える「経済通」がたくさんいるのだろうが、数学はやはりちゃんと勉強しないといけない。

それでも通常の学校教育レベルの勉強は、絶対的な真実は教えられなくても、その近似値をつかむことはできるし、多くの場合の社会適応を助ける。

だから、私だって、詰め込み教育も重要だと主張するのである。

ニュートン物理をやらないで、アインシュタイン物理は理解できないだろうから。

実際、大学院レベル以上の教育を受けないで、ノーベル物理学賞をとった学者は最近はいないはずだ。

問題は、自分に詰め込まれた知識を疑うかどうかだ。

絶対的な真実などというものがもし存在し、それがわかれば、人類は勉強する必要はなくなる。

そのデータをすべてインプットしたコンピュータが絶対の真理になってしまう。

そんな日が絶対にこないと私は信じているし、来てほしくない。

あまりに二流レベルかもしれないが、こういう哲学的な思索も時には大事だろう。