世の中変な医者が多い。

脳死肝移植を受けた患者さんが1週間ちょっとでなくなった。原因は不整脈だったらしいが、肝機能が正常だったので、手術と死亡の因果関係がないで片づけている。移植に限ったことではないが、これまで大した問題でなかったことが、手術の後に起こってなくなることは、別に珍しいことではない。ただ、だからといって、それが手術や麻酔などと無関係とは言い切れないだろう。偶然の一致であることの証明はそんなに簡単なことではない。移植などという手術は、どこの国でも、ある一定の確率で死亡するリスクのある手術だし、日本の場合は、例数が少ない分、なれた国より、この手のトラブルが多くなる確率が高い。意地を張るより、原因の究明を求める姿勢がないと、この医者だって、腕はあがっていかないだろう。前から問題にしている、膵腎同時移植をやった深尾氏のように明らかな無茶をやっているわけではないのだから、移植は100%助かるみたいな幻想を、医者の側がもつべきではないだろう(患者が期待するのは致し方ないが)。

拙訳『トラウマの精神分析』がアマゾンでボロクソに書かれていることを前にブログで書いたら、知り合いが書評をしてくれたそうなので見てみたが、こちらにとっては気恥ずかしくなるくらいほめてもらっている。ただ、私をボロクソに書いた精神科の医者は、読みもしないで書評をしているだけでなく、タイトルの訳をみただけで、「題名の訳し方に訳者のセンスのなさと精神分析に対する根本的無理解が表れています。」と書いている。

自分が精神分析を根本的に理解しているつもりなのだろうが、たとえば、このタイトル一つにしても、出版社の編集者の要望でタイトルを変え、きちんと原著者の了承もとったものだ。本を売るために、タイトル一つ決めるにも、いろいろと話し合いが行われたり、裏事情が生じたりするものだ。本文を一行も読まない人間が、タイトルだけを見て、根本的無理解と決めつけ、背景の事情をまったく想像できないとしたら、そんな人間が精神分析をやっているとか、精神科の治療をやっていると考えるだけで恐ろしい話だ。なぜ、精神分析は1回1時間近くをかけ、患者さんの言い間違いにさえ意味があると考え、またそれを何年も続けることで、患者さんの内面を、患者さんと一緒に理解していく長旅なのであるということは、少なくともアメリカではほとんどの政審分析家の共同認識だろう。「このタイトルの付け方をみると、この人は精神分析をわかっていないですよね」などとアメリカのまともな政審分析家に聴きにいったら、「もっと話を聞いてみたら」とか「せめて本文を読んでみたら」という返事しか返ってこないだろう。

もちろん、根本的理解をしているはずの、また原著にあたると偉そうにいえるだけ英語ができるつもりの当人が、少なくとも自己心理学については、英文の論文の一つも書いていないだろうし、学会発表もしていないはずだ。なぜ断言できるかというと、私しか、そういう人がいないからだ。

「彼の自己愛精神構造ではストロロウの訳がきちんとできるとは思えません」とこの人はいっているが、自己愛精神構造でもいいし、多かれ少なかれ誰でも人間は自己愛的なものなのだということが自己心理学の基本的な考え方だ。よその学派のものが、自己愛精神構造ではきちんと訳ができないだろうというのでさえ、本当はおかしな考え方だが、自己心理学のものについては、自己愛的な人間を否定する発想自体が、基本理念に反している。もちろん、自分が精神分析を根本的に理解していると思えること自体が自己愛的なのだが(一生涯にわたって理解を深めていこうというのが、精神分析家たちの多くの姿である)、それを素直に認めるところから、自己理解や人間理解が始まるはずだ。

私だって腹が立っているから、この人のことをボロクソに言っているわけだが、もし患者さんとしてこの手の人がきたら、なぜこんな考え方にいたったのか真剣に理解するように努めるだろう。

ところで、アマゾンの書評だが、実名で書ける人がどのくらいいるのだろうか?昔「精神科医は信用できるか」という本を書いた際も、精神科医でありながら、人間を対象にした研究は意味がないと言いきっていた人がいた。動物の脳と人間の脳が同じだ(ソフトも含めて)と考える人に治療を受けたい人がどのくらいいるのだろう。もっとも東大の精神科の教授が、患者の話など聴かずとも、画像だけで患者の病気がわかると言っているご時世だから、こちらの考え方のほうがスタンダードなのかもしれないが。

小松秀樹氏がさんざん書いているように、人間は確実に死ぬし、100%安全な医療行為というのはあり得ない。

患者さんにもそれをわかってもらう必要はある。

移植手術だって危険は伴うし、心の治療だってかえって具合が悪くなる人も、最悪自殺に至る人もいる。

もちろん、患者さんのほうにもそれをわかってほしいが、肝心の医者のほうが、自分は手術ミスなどしないとか、自分ほどわかっているものはいないと思いあがっていれば、この手の「失敗」(失敗学でいうところの失敗だが)はなくならない。

どんな簡単な手術でも人の命にかかわることがありえるとか、心の治療でも患者さんをかえって傷つけることがありえると思えるから、そういう失敗を少しでも減らそうと細心の注意が払えるのだろう。

ただ、そのために自分の能力を超えた患者さんを引き受けたり、自分のもてる時間以上の時間でできそうもない治療を引き受けたりしないことも理解してほしいし、日本の医者の数では、すべての患者さんにそれだけのレベルの全力を尽くせないこともわかってほしい。

そういう意味で、私も変な医者にならないように心掛けるが、逆にそのために、受け入れるキャパシティが余計に小さくなってしまう悩みがある。私に治療を受けたいと思う方の多くをお断りしている事情は、そういうものなのだ。

ちゃんとした医者になるのは難しい。せめて変な医者でないようにこれからも頑張ろう。実際、私を批判した医者にしても、決めつけは激しくても、天才的な勘があって、臨床は素晴らしいのかもしれない。また決めつけられて具合が悪くなる患者もいるが、逆に決めつけてもらったほうが精神的に安定する(本質的な治療ではないが、そのほうが助かることは多い)患者さんもいる。

たぶんそうでないというのは、単に私の長年の医師経験からくる勘にすぎないのだ。(だからこそ、この人には名乗り出てほしいが)