いろいろと励ましのメッセージをいただいて嬉しい。

その中で、自分が映画監督になれなかったと言わないでほしいという嬉しいメッセージもいただいた。

私としては、当時なれなかったし、長い間なれなかったという意味だったのだが、一応、監督の端くれくらいにはいるつもりだが、これからもう何本か撮ってからそれを堂々と名乗ろうと思っている。

次の目標としては、やはりお客さんがたくさん入る映画を撮ることだ。私自身は芸術映画の監督とか、アーチストの意識はなく、基本的には職人監督と言われるようになりたいから、やはり客が入ることは重要な要素なのだ。

ただ、現実に、私のような異業種の人間が監督をやると、(タレントが監督をやるとヨイショがやたらに多いが)日本ではおそらく評価されないのが目に見えていた。作品を見るより、誰が撮ったかでしか映画が観られない属人思考の映画関係者や評論家が多すぎるからだ。

仕方ないからモナコに出したら、カンヌで監督賞をとったパーベル・ルンギンの新作や、ハリソンフォードがナレーターを務めるダライラマのドキュメンタリーに勝ってしまった(といっても審査員の主観だが)。日本人が、日本の映画を中身で評価できないのは悲しい。外国で賞をとると掌を返したようにほめる評論家も多いが、私の映画に関しては黙殺だった。

さて、別件があってアマゾンで自分の本を探していたら、今年出した、ストロロウの翻訳が酷評されたいたので、それを読んでびっくりした(下記参照)

「暇ができたら読んでみたいと思っていた本が、昨年末に岩崎から訳が出て喜んだのも束の間。翻訳者の名を見て買って読むのをやめました。彼の自己愛精神構造ではストロロウの訳がきちんとできるとは思えません。やっぱり時間がある時に原書を読むことにしました。岩崎さんしっかりしてほしいです。ちなみに原題は "Trauma and Human Existence: Autobiographical, Psychoanalytic, and Philosophical Reflections" で決してトラウマを精神分析しているわけではありません。副題の訳はともかく、題名の訳し方に訳者のセンスのなさと精神分析に対する根本的無理解が表れています。

「精神療法」の最新号をパラパラ読んでいると丸田先生のこの本に対する書評があり、訳者のW氏が長い間ストロロウのスーパービジョンを受けていたことを知り、またまたびっくり。でもこの訳本の訳の出来についてのコメントは辛口でした。 」(これで全文)

アマゾンの書評欄というのは、読んでいない(とはっきり書いてある)人の書評を載せるのだということにも呆れたが(それが参考になったという人がいるのもすごい話だが)、日本の精神科医や精神分析医(一部だと信じたいが)のレベルの低さにも、唖然とした。私の自己愛精神構造では、ストロロウの訳がきちんとできるとは思えないと断じ、原書にあたれるだけの英語力があるのなら、一度でいいから、自己心理学の国際学会に演題を出してほしいし、Progress in Self PsychologyなりInternational Journal Of Self Psychologyにでも論文をのっけてほしい。

日本の精神科医に、これらの学会に演題を出して、アクセプトされ、実際に発表したのは私しかいないし、国際年鑑であるProgress in Self Psychologyに論文を載せているのも私しかいない(しかも2本)。

要するに私がほかの仕事をしているとか、自己愛精神構造(この人と会ったことがあるのだろうか?こういう決めつけがいけないというのが本書の趣旨なのだが)だから、その人の訳書や精神科医としての在り方まで否定するのが日本の精神分析医の基本パターンである。それが怖いから、私は日本の学会に演題をあまり出さない。国際標準で認められないような人間にこんなことは言われたくない(確かに、題名の訳は、本を売るために編集者の案を採用したので、痛いところはつかれているが)。

このレビュワーは丸田先生が辛口のコメントをしていたことで、自分の批判の補強をしているが、丸田先生は、確かに日本人で、アメリカの名門のメイヨー・クリニックで精神科の教授をやっていた立派な方だ。ただし、精神分析については、インスティテュートのような形で正式なトレーニングは受けていない。本書については、『精神分析研究』では、日本人として二人目の、アメリカで正式な精神分析医の資格を得た、岡野憲一郎先生が絶賛していたが、この人にとっては、専門外でも教授が偉いということなのだろう。

胃がんの患者が、アメリカの心臓外科の教授に、外科の「教授」だからといって手術を受けるような発想である。

これが日本の精神科医(『精神療法』を購読しているということだから、臨床心理士か精神科医だろう)と思うと情けないが、こういう人が多いから、名前より、中身をみて評価してくれる、外国の映画祭や外国の学会に、映画作品や論文を出さないといけないのは、日本人として恥ずかしい。

さて、いろいろとメッセージをいただいたおかげで、勝谷氏が元同級生でありながら、そこまでやって委員会で、私が受験競争をあおる元凶のような物言いをしていることなどがわかった。

この番組は、この手の欠席裁判を平気でやる番組ということもよくわかった。

私は、勝谷氏のように、戦争が強かったり、日本の政治家が外国の政治家に論争で勝ったら、国民がバカでもいいとか、貧しくてもいいとかいう発想はもたない。だから、学力低下を憂え、かろうじて子供たちの勉強のインセンティブになっている学歴養護的な発言をしているだけだ。ただし、格差を固定しがちな金をインセンティブにする市場原理的な考え方より、昔流の名誉をインセンティブにするべきだと言っているだけである。学歴社会を叩くのは簡単だが、それですでに韓国や中国に負けている学力が余計に負けたら、どうするつもりなのだろう。北朝鮮を叩きながら、日本を北朝鮮みたいにしたいということなのだろうか?

いずれにせよ、人のことを批判するなら、批判される人を呼ぶのが筋だろう。それで断ったから欠席裁判をされるのは仕方ないが、こういうやり方が平気でまかり通るから、偽の弱者の味方としか私には思えない。

この番組は、東京では聞けない世の中の裏がわかるとか、東京批判が聴けるということで関西の人気番組になっているらしい。

私が、このブログで、東京発信のメディアのおかげで、東京に有利な世論ばかりが醸成され、地方はますます不利になるというようなことを書いたら、むしろ東京だけたかじんの番組がやっていないから、何も知らされていないとか、勝谷氏が、東京の飯は日本一まずいと言っていたとメッセージを送ってきた人がいた。

こういう人が大阪にたくさんいるなら、まさに北朝鮮状態である。

自分たちは幸せなのだとマスコミで聞かされ、よその世界を知らない。そして、当の勝谷氏は、東京ではグルメ評論家として、東京のおいしいものをさまざまなメディアで紹介している。大阪ではテレビで、東京は日本一まずいと言っておきながら。

そこまでやって委員会をみて、「大阪のほうが幸せや。東京はアホばかりの上に、ろくな飯も食うとらん」などと幸せ感にひたるのは、確かに今の大阪の経済状況なら、主観的には必要な洗脳なのかもしれない。しかし、現実的には、いつかは東京に勝ってやるという意気ごみや努力のほうが、重要なように元大阪人として大きなお世話かもしれないが思ってしまう。

阪神タイガースが強くなったのも同じことだ。昔の大阪人は、それでも戦いを挑む阪神を応援し、巨人の汚い選手引き抜きを批判した。

しかし、今や当の阪神が金権球団になり下がり、よそのチームから引き抜いた選手ばかりで勝っている。

それでも、阪神が勝つと、生活の苦しさが忘れられるのだろう。

そこまでやって委員会や阪神タイガースは、一時の清涼剤にすぎないし、そこで騙されてはいけない。

この手の記号や象徴で満足するより、やはり現実の世界で、もう一度大阪を復権してほしい。