私が勝谷氏と連帯する気がないという話を書いたら、某番組で、勝谷氏が私をいじめていたからという話をしていたという情報をいただいた。

http://www.youtube.com/watch?v=PMqpvRoR2Vg&feature=related

彼は露悪を趣味としているから、そういうことを言うのだろうが、私は、勝谷氏にいじめられた記憶はない(しかし、灘高校時代、ひどいいじめを受けていたのは確かだ。私をかなり激しくいじめていた人間が、今では某大学の経済学部の教授になって、竹中平蔵氏と似たような政策をぶっているのを聞いて、弱いものいじめは一生治らないとは思ったが)

このように勝谷氏の発言には、小さなウソや誇張が意外に多い。情報筋から聞いてきたとされる話が、どこまでが真実で、どこまでが作り話なのかがよくわからない。それだけエンターテイメント性が高いといえるが、怖くて引用はできない。

私が東大医学部しかアイデンティティのない男だからとも語っているが、今はそう言われても仕方がない。しかし、当時は、とにかく映画監督になりたかった。東大医学部の話題性と、そこでやれる限りのバイト(家庭教師の時給が日本一高いのを知っていた)をすれば、自主映画の監督としてデビューできると信じていた。結局、映画監督になれずに、彼に「東大医学部しかアイデンティティのない人間」と言われる羽目になった。ああ、情けない。多少愚痴を言わせてもらうと、勝谷は大病院の息子だから、自分の好きな道を選べたが、私のような貧乏人の小倅は、たまたま受験勉強ができることもあって、親に頼らない打開策を考えるしかなかった。

ただ、勝谷氏とは連帯できないと思うのは、この一件でもわかるように自分よりダメな人間におそろしく冷たいことがある。私だって、彼のような金持ちの子に生まれていたら、それこそ早稲田にでもいって、犬堂一心氏や、森田芳光氏のように、ろくに稼ぎもしないで映画三昧みたいな時期を送っていたことだろう。彼には本当のところで貧乏人が這い上がるためにどんな思いでいるか、貧乏人の本当の気持ちはわからないだろう。だから、生活保護なんかについても簡単に断罪できる。

さて、昨日、ギャンブル依存の話をした。

中には、無辜の拉致被害者と、「自己責任」のギャンブル依存になってしまった人間を同列に扱うなと思った方もいるだろう(今回は、読者が賢明な人しか残っていないのか、そういう批判メッセージは受けなかった)

前にも、飲酒運転厳罰化で減る死亡者より、それによって、ストレス発散ができなくなった人や店がつぶれて生活できなくなる飲食店経営者などの自殺のほうが多いはずだと書いたら、無辜の交通事故被害者と勝手に死ぬ人間を同等に扱うなという激しい非難を受けたことがある。

どうも、日本人には、依存症や自殺を自己責任と思う考えが根強い。逆に言うと、病気だという発想が乏しい。先進国では、これらは病気と考えられ、それに対する治療と、治療に結びつける啓蒙、そして予防のためのさまざまな活動(広告規制や報道の自殺予防ガイドラインなどを含む)が盛んだというのに、日本のマスコミは、ちょっとした事件で数人が死ぬのは大騒ぎするくせに、その数百倍から下手をすると数万倍の死につながる、依存症や自殺については、いまだに自己責任モデルを取っている。わざとではないにせよ、自分たちの不勉強がどれだけの死に結びついているのかがよくわかっていない。

自殺については、完全に精神状態が正常で、本当に自分の意思で死ぬ人がいるのかどうかさえ疑わしいと言われている。少なくとも8割はなんらかの心の病(多いのはうつ病、アルコール依存、統合失調症である、統合失調症については、人を殺す人の何十倍、何百倍もの人が自ら命を絶つほうを選ぶことを知ってほしい)がからんでいるとされる。適切な治療を受けていれば、死ななくて済んだ人は多い。日本の文化の中では、仕事が終わった後で、お酒を通じて、仲間とうさを晴らすことで、そうならなくて済んでいる人はものすごい数でいる。年間300件にも満たない飲酒死亡事故を騒ぎ立てて、都会ならともかく、夜中に歩いている人もいない地方でまで、厳しい飲酒検問をやるのはいかがなものかと思う理由はここにある。

ただ、アルコールというのは、ストレス解消という点では、メンタルヘルスに良い面もあるが、依存症をある一定の割合で産み、多くの人がそのせいで社会的生命を失ったり、最終的に自殺に至ることが少なくないという大きな問題も抱えている。

アルコールを飲んで、依存症になる人とならない人がいるという場合、ストレス解消のメリットとアルコール依存のリスクのデメリットのどちらを取るのかは難しい選択だ。

アメリカの禁酒法がマフィアをはびこらせたもとになる悪法だという人は多いが、厳しい取り締まりを数年ではなく、数十年の単位でやっていたら、アルコール依存症の数を覚せい剤の依存症の数くらいまでは減らせるのも確かな事実である。人々が酒の力を借りなくても、お茶を飲みながら本音を語れる世の中になり、酒を飲むのは、社会の脱落者だけという時代になる可能性は大きい。

もちろん、犯罪者の側は、それでもその依存性を知っているから、厳罰を覚悟で、善良な市民に覚せい剤を売り続けるように、禁酒法ができても、ぜったいに入り込んでくることだろう。

飲酒運転にしても、とんでもないクズのように言われるが、いったんアルコール依存になってしまったら、つかまるのがわかっていても、アルコールそのものはやめられない。車を運転しないといけないような地方に住んでいたら、結果的に飲酒運転をしてしまうということがある。

さて、私が問題にしたいのは、同じようにアルコールを飲んで依存症になる人と、ならない人がいるということについて、それは意思や人間としての能力が優れている人と、そうでない人の違いだと思っている人が多いようだが、そうではなさそうだということを言っておきたい。

将来は依存症になりやすい遺伝子が同定されるかもしれないが、同じ依存性薬物でも、強い嗜癖が簡単にできる人と、そうでない人がいる。

また日本人の場合、アセトアルデヒド脱水素酵素の強い弱いの差があって、アルコール依存になるだけの酒が飲めない人が多いというのも幸いしている。

タバコについても依存性が強く、実際は依存症といわれても仕方がない人がかなりたくさんいる。ただ、タバコの依存症の場合は、中高年以降に体の病気という形で、悪影響を受けることが多く、そのせいで仕事ができなくなったり、借金まみれになったりすることは少ない。ただ、家族に受動喫煙という形で被害を与えるという問題はあるが。

タバコについては、そういう経緯があって、ものすごく税金を高くしたり、広告制限をしたりされているが、依存症になると、もっと社会的生命を奪うことの多い、アルコールとパチンコについては、そういうことが今のところまったくない。

世界的な流れをみても、タバコやアルコールについては、禁止はできないが、重税化、広告規制というのが一つの流れになっている。

ギャンブルというのは、禁止の国もいまだに多い。モナコやマカオのようなカジノの街のような国でない限りは、ある限られた場所でだけ許可するというシステムの国が多い。

少子高齢化のおり、そうでなくても、人口が減っているのに、いろいろな依存症を作って、働けなくなったり、逆に犯罪などマイナスの働きをする人を増やすのは、国家的な損害だ。

問題は、多くの場合、依存性の強いものほど金もうけがしやすいということがある。

そのため、麻薬の密売業者をふくめて、依存性のものを扱う人間は金をもっている。そして、政治家を買収するというのが、途上国ではよくある構図となっている。

政治家が、公共事業発注の見返りに金をもらうことは、もちろん反道徳的なことだが、被害はそれほど多くない。せいぜいその分、税金がよけいに使われるくらいだろう(今の時代では、それも許されることではないが)。

しかし、多くの国民がそのせいで身の破滅となっていることをわかっているのに、そこから金をもらって、その規制に消極的になったり、金をもらって、それをさらに流行らせる宣伝をする奴は、麻薬の密売業者から金をもらう人たちと構図的には何も変わらない。それが日本の政治家であり、それ以上に、善意の顔をしたマスコミのやっていることである。

もう一度、精神科医として言っておく。

アルコールやギャンブルは、ならない人もいるが、ある一定の確率で、必ず依存症になる人間がでてくる。それは意思の強さより、おそらく何らかの遺伝子や脳の問題が絡んでいるのだろう。

やるなと言わないが、やっていない人を誘うのは罪作りだし、宣伝をするのも罪作りなことだ。(そう考えたときに、私もブログでワインを勧めることに多少罪悪感をもつようになった)

日本のマスコミは、不景気になって金がなくなると、依存性のあるものからの業者に頼るようになりがちだ。

「そんなに依存症が怖いとは知りませんでした」という無知で済まされる問題だろうか?

内田樹氏も指摘するように、むしろマスコミの人間である以上、無知は恥である。無知を装って、善意の市民の顔をして、被害を広めるようなことはあってはならないのである。