柏市のラーメン屋「夢館」の方から承認待ちの通知をいただいた。相互読者にどうやってなっていいのかわからないし、あまり他人様のブログを読む習慣がないので、ご要望にお応えできないが、そのHPを見させていただく限り、まったく私好みのラーメンのような印象を受けた。

柏に行く機会がいつあるかわからないが、松戸であれ、三郷であれ、近くに行く機会があったら行ってみたい。

次に相変わらず、私の裁判官の審査機関設置案について不満のメールもきている。難しい法律の理屈をたくさん述べても、私にはまったく納得がいかなかった。知識をひけらかした形のご意見をいただいても、では、不勉強な裁判官の身分は、そのまま保障されていいのか(この人の文面を見ればそうとしか読めない。その人の説によると憲法が禁止しているとのことだが、それは最高裁判所が出した判例であって、憲法には、どこにもそんなことは明示されていない。最高裁判所が国民より、裁判官の味方になるのは当然のことだが、冤罪事件ですら、被害者は国を訴えることはできても、裁判官を訴えることすらできない不条理を放置しておいていいのかと思ってしまう)

ただ、議論を続ける気はまったくない。おそらく自分が何らかの事情で裁判官の味方をする法律に詳しい人に議論で勝てるとは思えない。ただ、負けたからといって、自分が間違っているとも思わない。説得力のない知性は、既得権益を守るくらいにしか力は発揮できないだろう。

内田樹さんの本を読んで、私自身もようやく自信を回復したが、このブログは、原稿料がタダの代わりに、私が意見を言う場であって、そのメッセージの主の意見に納得しない限りは、今後は無視することにする。要するに今後は、ときどきかカッとなって批判メッセージを取り上げることはあるだろうが、そうでないメッセージは黙殺する。応援メッセージは歓迎するのはこれまで通りだ。

昨日は、実は朝3時半起きだった。

なんと、『テレビの大罪』を新週刊フジテレビ批評という番組が取り上げてくれたのだ。

で、私がコメンテーターとして呼ばれることになった。なんと簡単にテレビに取り込まれる人間と思うかもしれないが、黙殺するよりは懐が広い。人間というのは(とくに私は)感情的な生き物なので、こんな話はつい好意的に受け止めてしまう。

決めつけがいけないと主張しながら、決めつけをけっこうやっていますねと嫌味も言われたが、とりあえず、テレビの危険性をテレビ自身が自省するというのは画期的だと思った(もともとそういう趣旨の番組で、吉岡忍さんなどは、もっと厳しく指弾するらしいが)。

で、昨日、今日のニュースは、やはり押尾学の裁判員の出した判決だった。

どう見ても、裁判官の説明に素直に納得した結果としか思えない判決だ。

妥当と言えば妥当だが、「救命が可能であったかどうかの客観的な立証」のほうが、「因果関係はともかくとして、救急車を呼ばないで、人が一人死んだ責任」より優先される、旧来の判例踏襲型の判決になった。

そして、刑事のほうが救命が可能であった可能性を否定したために、被害者の家族は民事賠償も訴えにくくなるという事情もまったく無視されている。

こういう大衆心理(そんなものが介在してはいけないというのなら、裁判員の制度などは余計な負担にしかならない)を汲むことが目的であったはずなのに、もうすでに崩れている。

何度も言うが、目撃証言があてにならないことや、取り調べが可視化されていない上に、先進国でありながらいまだに代用監獄がまかり通っているこの国で、よほど客観的な証拠がない限り、否認案件を裁判員に判断させることは、かなり荷が重い。万が一、えん罪だった時のトラウマは、職業裁判官とは比べ物にならないだろう。

しかし、やっていることが確かな事件において、罪刑をどうするかは大衆感情や庶民感情と、裁判官の判断がずれているのは確かだ。

少年がレイプ殺人をやって、さかりのついた20代後半に娑婆に出てこられるような判決を出すとか、そういうときにこそ、裁判員の意見を尊重すべきなのに、今回の判事はちょっとでしゃばりすぎなのではないか?