生きていれば104歳になる母親の死亡を隠し、年金を受け取っていたとされる長男が詐欺容疑で立件される見込みだという。

確かに、この手の年金詐欺は、あちこちであるだろうし、今後のことを考えたら一罰百戒的な意味をこめて、きちんと詐欺で立件するのは悪いことではない。

ただ、ニュースを読むと、仕事がなくて、4カ月に13万円出る老齢福祉年金を頼りに生活をしていたというような報道もある。大田区に引っ越してからは、ある報道では生存確認届けがでていないため、別の報道ではアルバイトの仕事にありつけたためということで、年金は受け取っていなかったようだ。

要するに、本当に生活に困ってということだったのだろう。母親の年金で詐欺をするより、生活保護を受給したほうがよほど金になったはずなのだが、これも無知によるものなのだろうか?

ベーシック・インカムのようなものがあれば、こんな悲劇が防げるのではないかと思うと、なんとなく切ない気分になる。

さて、昨日は、子供と『オレンジ・デイズ』の再放送の最終回を見る。

番組の中では、障害者の気持ちなんかわからないなどという意味の言葉が何度も出てくるが、耳の聞こえない人のことがわからず、いい加減な決めつけをやっているのはどっちだというくらいひどい場面が連続する。

最後のシーンで、耳が聞こえない人間をバカにするように、変なしゃべり方で、柴咲コウが妻夫木聡に声をかける。聴力を失い、変なしゃべり方になって、それでいじめられて以来、一切、しゃべらなくなった主人公が、心を開いて変なしゃべり方であっても声を出すという感動のシーンのつもりなのだろうが、中途失聴でしゃべり方がおかしくなるという医学的にはあり得ない設定のほうが、よほど障害者の気持ちがわかっていない。

中途失聴者の多くは、まともにしゃべるために、相手が聞こえないと思ってもらえず、そのために筆談をしてもらえなかったり、聞こえているのに聞いていないように思われて、いじめを受けたり、怒られたり、ひどい目にあうことが多いという。勝手な障害者イメージを作り上げておいて、障害者の気持ちをわかる美談に仕立てる商売根性が許せない。

ところで、すべてのタイプではないと思うが、難聴や失聴の場合、ボリュームが下がるというより、雑音が入ったり、ラジオのチューナーが狂ったような感じて聞こえるらしい。だから、聞こえないから大きな声で話しかけられると、かえって不快な音になってしまうというのも聞いたことがある。

実は、昨日は、とある偉い人から食事に誘われて行ってみると、筆談ホステスの担当編集の方が来ていた。で、その話をすると、筆談ホステスの人は生後6カ月で耳が聞こえなくなったのに、母親が真剣に発声練習をさせたり、文字と口の動きがどうなるかを丁寧に教え込むことで、おおむねフルーエントに話せるようになったし、読唇もできるのことである。

これは母親が聾学校でなく、普通学校に行けるようにしたかったからの努力だったということだ。

ということは、手話も筆談もなしで大体の会話ができることになる。

で、親しい人にはそれをしているのだが、そこで心ない週刊誌が実は耳が聞こえるなどと書いたというのだ。どれだけの努力を筆談ホステスがしてきたかわからないというのに。

耳が聞こえない人が何ができて、何ができないかをテレビこそが教えるべきなのに、間違えたイメージを伝えつつ、美談を装う。

昨日も触れたように、移植医療の主流派は、人体実験で人の社会的生命や実際の生命を奪うような医者が理事長として君臨してきた移植学会の面々で、人助けのために目立たぬように病気腎移植をしてきた万波医師のような医者を糾弾する一方で、大学病院の権威にはへいこらするような医者たちなのに、移植医療はいつも美談になる。

ものを知らない人が、実話風の迷惑なドラマを作るくらいなら、お笑いに徹したほうがよほどドラマとしての質が高い。

その点、宮藤官九郎はなかなかすごい。

うぬぼれ刑事は筋書きがよくできている上に、久しぶりに笑えるドラマだった。

えせヒューマニズムより、この手のドラマが受け入れられてほしいが、意外にレーティングを取っていないとのこと

残念だ!