沖縄での米兵の犯罪などは微々たるものだと書いているブログを紹介して下さった方がいる。

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/f0a70105be4c557c8209996485670034?fm=rss

確かに米軍の軍人の数からすると少なかったり、沖縄の一般人の犯罪率と比べると少ないのは事実かもしれないが、これは検挙件数ベースの話であり、基地に逃げ込んでしまって手が出せなくなったものはカウントされていない。(これが問題なのである)また、現地の人に聞くと、警察のほうも米兵がやったと思われるものには及び腰で、よほどひどい事件や現行犯でしか捕まえないとのことだ。しかも、ひどいことをされても日本で処罰できないことがもっとも大きな問題である。数字の通り本当に少ないのなら、そこまで沖縄の人間が怒るだろうか?

そのほかにも交通事故の問題があり、彼らの車は最近までナンバープレートさえつけていなかったらしい。

それでも、最近はナンバープレートをつけるようになったし、軍規もかなりまともになった(ハートロッカーをみても、一般人を殺さないのに細心の注意を払うようになったのはよくわかる)。

昔は相当ひどかったらしいが、今の米兵はおとなしいというのは、沖縄の人にも確かに聞いた。そのころの被害者感覚が蓄積しているということもあるのだろう。どちらにせよ、数千人の被害者が出ているが、拉致被害者と比べて、あまりに粗末な扱いを受けているのは事実である。

さて、今朝テレビをみていたら、家族の人間が、中井とかいう大臣の発言がふざけていたと怒っていた。

なんでも、金賢妃についてだが、「彼女は、もうこれから一生海外にいけないかもしれないので(特別待遇にした)」とのたまったそうである。

彼女たちが怒るのは、日本国内でも一生海外旅行に行けない人間がいるのに、元死刑囚のような一般人より悪い人間がなぜこれから海外に行けないことで同情されないといけないのだということだった。

うちの人間たちも多少賢くなったと喜んでばかりはいられない。これはまさに正論である。

ヒトラーは、経済成長期から、戦争に入った時期でさえ、国民に積極的に海外旅行に送り出した。

そのために準豪華客船のようなものまで建造して労働者階級にチャンスを与えていた。「国民に一生に一度は外国から祖国をみる機会を与えよう」という政策方針だったようだ。戦時中、国民に海外の事情を知らせようとしなかった日本とは大違いである。外国の死刑囚にそんなに同情するのなら、日本の一般市民に、当たり前に海外に行けるくらい経済を立て直すほうが政治家の仕事だろう。それもできないのなら、そんな同情をする資格があるのだろうか?しかも、このために無駄に使う国費についての公開すらしようとしない。

で、テレビの続きをみていたら、いくつか新作映画の紹介があった。

子供たちの好きな映画の監督たちは、いわゆる学歴エリートでない人たちだ。工業高校卒などという人も何人もいる。

こんなことを書くと学歴主義者とかひがみ(こっちは当たっている)とか言われるかもしれないが、昔は映画会社というのは、東大を出ていても何十倍もの競争率で、五社の職業監督はインテリの集まりだった。その当時の映画というのは、もちろん娯楽映画も多いが、いっぽうで社会派といわれる映画も多かった。

今の映画はビジュアルの時代だから、下手に学歴をつけたような人間は監督に向かないのかもしれない。その代わり社会派映画が激減した。袴田事件を扱った高橋伴明(彼は早稲田のはずだ)くらいだ。

もちろん、インテリが撮っていたころのほうが絵はつまらないのかもしれない。

ガードナーの多重知能理論によると、音楽や芸術の知能は、勉強の知能とはまったく別物である。

実際、一流の芸術家や音楽家などはインテリとは別のキャリアだ。スポーツ選手にしても、たとえば東大卒のプロ野球選手で大成した人はいない。

学歴が低いほどいいというわけではないが、学歴の高さはまったく意味をなさない「才能」の世界だ。

実は、私は、この「才能」というものがないから映画の世界を志したものだった。小説家にも、音楽家にも、美しい映像作家にもなれないが、それをまとめあげる監督にならなれるのではないかと。

映画もだんだん逆学歴社会になってくるということは、才能の世界になってきたということかもしれない。

それでも私は、数少ない「社会派」の監督として、しぶとく生き残っていきたい。