映画のコメントを頼まれて、まだ封切前だが『孤高のメス』という映画を見た。

確かによくできた映画である。

夏川結衣も人間を本当に感じさせるナースを熱演しているし、なんやかんや言って堤真一はすばらしい役者だ。演出もしっかりしているし(ラストが多少冗長な気がしたが)、脚本もよく練れている。

ネタばれは許されないと思うので、公式HPに出ている範囲のストーリーを書くと、ピッツバーグで肝移植を学んできた名医が、一人の命を救うため、そして亡くなった子供の脳死死体を何かに役立ててほしいと願う親のために、当時、まだ合法化されていなかった脳死移植にいどむというものだ。

さて、日本初の脳死移植(和田心臓移植の時はきちんとした脳死判定は行っていない)は、1985年に行われた筑波大学の膵腎同時移植だった。

教授の岩崎洋治氏が執刀医ということになっているが、実質的な執刀医は助教授だった深尾立という医者だ。彼もこの『孤高のメス』の主人公と同様、ピッツバーグのスターツル教授のもとで肝移植を学んでいる。

しかし、彼が行ったのは、やったことのない膵臓移植だった。

その縫合不全というヘボ手術が原因で、そのレシピエントはわずか1年後に死亡する。それまでは腎透析を受けながらもちゃんと仕事ができていた人間だが、術後、持病の糖尿病が悪化して、失明までしている(私が聞いた話では、つないだ膵臓が働いているかどうかを試すために、わざとインスリンを打たないことで起こった事故だそうだ)。結局、術後、一度も職場に戻ることもなく、拒絶反応にも悩まされ、最悪のQOLになって死亡していった。

確か透析5年目ということだが、来年生きる可能性は2割もないと説明したそうだ。実際は、当時の技術で透析を6年受けて生きられる可能性は2割だが、5年生きていた人が6年生きる可能性は8割を超えていた。

ドナーは、この作品で描かれたような美談とは程遠く、精神障害者だった。実験的治療と考えるとヘルシンキ宣言にも違反する暴挙だ。

本作品では脳死移植にマスコミも反対するように描かれているが、事実はまったく逆で、そんなひどい移植をしながら、マスコミは執刀医らを絶賛した。逆に、彼の移植があまりにひどいということで、ドナーに対しては殺人罪、レシピエントに関しては傷害致死で訴えた医師と市民のグループは日本の医療の進歩を遅らせる存在としてマスコミの袋叩きにあった。本作でも、脳死移植に反対する医師たちは悪代官のように描かれているが、これは許せない。

その後、深尾という医者は日本移植学会の理事長に就任している。ついでにいうと、万波病気腎移植の際は、倫理委員長を務めたらしい。

孤高のメスの主人公は功名心のかけらもない患者思いの名医だったが、深尾氏がそんな医者だとは思えない。彼は以前にも、なんと世界中で彼の前にも、そして未だに成功例のない心臓死肝移植を行って、もちろんレシピエントを死に至らしめている。

医療というのは、難しい。どんな医療にもよい医療と悪い医療があるだろうし、本作品で描かれているように、よい手術と悪い手術がある。

しかし、移植学会は、深尾氏のような医者に「あなた方が暴走するから、本当にいい移植ができなくなるんだ」と諌める人間はいなかったようだ。逆に、彼をリーダーにしてまとまる組織になった。

だから、私は日本の移植医は信じない。

万波さんのほうが、はるかにこの作品の主人公に近い医者だろうと直観的に思う。

本作品では、移植の舞台は大学ではなく、地域の病院で、大学の権威には疑問が投げかけられている。これは評価できる(とはいえ、医療指導が大学病院なので、かなり遠慮しているようだが)。しかし、現実には、実験的な脳死移植は大学病院で行われ、患者を助けるための病気腎移植は小さな地方の病院で行われたが、大学病院は、これを断罪し、マスコミも味方につけた。

私には、この映画がその延長にあるように思えない。

ナチスも戦前の日本も映画を最高レベルのプロパガンダに利用した。

この映画も、脳死移植推進映画になるだろう。

私は、映画の世界では、ずっと本当のことを訴え続けたい。そのために在宅介護の惨状と今後を描いた映画を作りたいが、この手の虚構のもとの美談には金を出す人はいても、現実を多くの人に知らせる、真実に近い映画には金を出してくれる人が見つからないのが現在の悩みの種である。