「学歴社会という幻想」というブログを二日にわたって書いたわけだが、ふと受験生のころのことを思い出してみた。

勉強法を変えて、急に成績が上がった私は、東大理科Ⅲ類の合格を夢見ていたのだが、もちろん受かったらすごいだろうなという幻想も大きかった。当時は、受かっても幸せになんてなれないというようなことを考えるより、事故が起こって受験に行けなければどうしようとか、当日、ものすごい病気をしたらどうしようというようなことしか思い浮かばなかった。

きっと、ものすごく女の子にもでるだろうとか、家庭教師でものすごく稼げるだろうとか、理科Ⅲ類のネームバリューで映画も撮れるかもしれないとか夢みたいなことを思っていた。

教育産業ではそれなりに稼いだし、普通の学生よりリッチだったかもしれないが、ほかの夢はほとんどかなうものではなかった。女の子に多少なりともてるようになったのは、むしろ女子大生向けの雑誌のライターになってからの話だ。東大のご印籠より、その雑誌の名刺のほうがはるかに有効だった。

ということで、学歴が幸せを保証するものでないことは私自身が痛いほどわかっているし、長い間生きてきた限り、学歴が高いより、金持ちの家に生まれることの方がはるかに幸せな国なのだということもよくわかった。私自身が「学歴社会という幻想」に踊らされていたというわけだ。

最近になって格差社会が問題にされるが、今年50歳になる私の年代でも日本は学歴社会などではなく、世襲社会aristocracyであり、金権社会plutocracyの社会だったのだ。

でも、逆に考えて、私が学歴がなければどうだっただろう。芸事の才能は一切ないし、金もうけのセンスもない。性格も悪い。ルックスもよくない。

こんなクズな人間でもどうにかやってこれたのは、とりあえず学歴や医者の免状があったからだろう。

金持ちのボンボンには勝てないが、同じくらいの家から生まれた人よりは恵まれている気がする。

才能あふれる文化人の中に入ると、私がなんでここにいるのだろうといつも思うが、向こうは勝手に学歴だけをみて賢いと勘違いしてくれる。

こういう本当のことを伝えるためにブログを書いているのである。

さて、いつまでたっても普天間問題の決着がつかない。

ただ、日本人のダブルスタンダードにも私は不快感を感じる。

日米安保がいらないというのなら、基地を拒否するのは、別に何も問題はない。

しかし、安保は重要だからアメリカを怒らせないうちに決着をつけろと国民が要望しているのに、どこも基地を受け入れないというのはどういうことか?

たまたま大竹まことさんのラジオを聞いていたら、鳩山氏がすべての都道府県に打診して、全部断られましたとアメリカに伝えたらどうかというような話をしていたが、それも一法だろう。アメリカも断った県は守る気になれないとでも言ったら面白いだろうし、まさにそれが地方自治、地方分権というものだ。

基地はきてほしくないが、国立の大病院なら歓迎というのは、やはり虫がよすぎる。

東京にしても、テレビのキー局や政府機関、最高レベルの医療機関、大学などを集めているが、原発はいらない、基地はいらない(まだ横田があるだけましだが)というのは、やはり虫がいいだろう。

今回のような場合、それだけ安保や日米関係が大事なら、すなおに沖縄に頭を下げる代わりに、おみやげを用意したらどうなのか?

たとえば、築地のがんセンターは、前にもふれたが東京にある必要はない。基本的に救急患者を受け入れていないのだから、アメリカで最高レベルの医療を受けたければミネソタのメイヨークリニックに行くか、テキサスのメディカルセンターに行くみたいに、最高の医療機関は東京から遠くていい。そういうものを沖縄に作るというバーターがあれば、まだ罪滅ぼしになる。政府も基地を受け入れた県には、どういう形で恩返しをするかを見せなければ、誰も受け入れたいなどと言わないだろう。

実際、沖縄は研修が自由に受け入れられる新臨床研修制度になって研修医が倍に増えたくらい若い医者に人気がある。南米ではキューバで医師のトレーニングをするように、日本では沖縄がそのメッカになればいい。

ついでに、東大も東京にある必要はない。これも沖縄に移転する。

そのくらいで、たくさん基地をおいてもらっていることについて、沖縄の人に勘弁してもらえないだろうか?