女子フィギュアスケートで審判に韓国人は入っていたが、日本人は入っていなかった話を聞く。

これをどうしてテレビは報じなかったのか(報じていた局があれば教えてほしい)。もしそうだとしたら、やはり韓国系のお菓子会社とパチンコ屋が大スポンサーだから遠慮してのことだろうか?

資本主義の世界では、民衆の怒りを民が他国にぶつける強力な方法としては不買がある。かつてフランスが核実験をやったときに、フランス製品の不買運動をやったことがあったが、ワイン好きとブランド好きが裏切ったような記憶がある。逆に言えば、フランスは、そういう競争力があった。日本も、高級とか故障が少ないとかいうイメージがあったので、不買運動に強い国だったような記憶があったが、今は従業員の給料を下げないと「国際競争」とやらに勝てないという話になって、不買にはナーバスだ。トヨタの社長の動きをみると日本のおかれている立場がよくわかる。でも、それを言い出したら韓国も「絶対にほしい」商品を持たないという点で不買には弱いはずだ。しかし、日本人はそういう形では抗議はしない。逆を考えてみるといい。あのフィギュアスケートで、日本人の審判が入っているのに、韓国の審判が入っていないという状況で、浅田真央が買っていたら、おそらく韓国では日本製品の不買運動が起こったように思えてならないのだ。

ところで、フランスの核実験の当時、中国も核実験をやった。当時の中国は今ほど資本主義の枠組みに入っていなかったので、右翼が怒り狂っても不買という方法は通じなかった。ただ、今は、中国も不買がこたえる国になったはずだった。ところが、日本の資本家が強欲で、労働分配率を下げて、日本人の購買力が弱まったのに、中国の購買力はどんどん強まり、逆転どころじゃない状況になった。日本が中国の不買運動をやろうにも、中国から安物が入ってこないと、ユニクロをふくめて、日本の会社も、日本の消費者も困ってしまう。さらにいうと、日本が不買運動をやっても、それに呼応して中国が不買をやると日本の会社が売り先がなくなってしまう。資本主義の社会では購買力の強い国のほうが強い国になるのだ。つまり、内需を冷やすことで、日本の立場がどんどん悪くなるのに、日本の右翼はその指摘をしない。戦前の右翼は金持ちと戦ったが、今の右翼は金持ちに食わしてもらっているからだろう。そして、日本の労働者が得るべき金が、アメリカや中国の株主がもっていってしまう。

なーんてことを考えていたが、どのくらいの人が同調してくれるのだろう。

昨日は、実は奈良の虐待餓死事件について、とあるテレビ局にコメントを求められる。そのときに与えられた情報は、「夫婦仲が悪いのに、子供が父親に似ていたので虐待した」という母親の供述だけだった。それに対して、私は、「日本では、そういう状況では、むしろ子供を溺愛して、夫を排除するのが日本の通常の家族の形だったのに、母親のパーソナリティがよほど未熟か、夫への憎しみがそれほど強かったのだろう」などと答えた記憶がある。

本日になって、夫が妻が怖いので見てみぬふりをしていたとか、もう一人の子供は普通に育てていたとか、夫に似ているので、ストレス解消のはけ口になったとか、いろいろな情報が出てきた。こういう供述も警察情報なので、どの程度あてにしていいかわからないが、軽々に犯罪者の心理のコメントなど出すものではないと多少反省した。

ただ、虐待事件でいつも思うのは、虐待者の心理より、再発予防のほうがよほど重要だということだ。

今回だって、近隣の人間がうすうす気づいていたのに、通報しなかったようだし、検診にこないなど当然訪問すべきケースだったのに、行政が訪問していないなどということが明らかになっている。

ただ、虐待についても、厳罰化しただけでは、防ぐことが困難なはずだ。虐待者が、今の危険運転致死などのように罪が重くなれば、ますます周囲が通報しにくくなるということも考えられる。

飲酒運転の場合は、被害者を少なくすることや、死者を減らすことが目的なのだろう。罪のバランスが悪いために、逆にひき逃げが増えたのでは、死者がかえって増えかねない。虐待の場合は、死者だけでなく、虐待そのものを減らす必要がある。昨日も書いたが虐待を受けた子供が、その後、パーソナリティ障害や、低栄養のために知的発達や身体的発達が遅れるなどのことが十分考えられるからだ。結果的に犯罪が増えたり、社会に出てから働けない人が増えたら、それを社会がかぶらないといけないのだ。

アメリカのように通報しなかったほうが罰されるようにするとか、児童相談所の権限をものすごく強くするようなことは当然すべきだ(もちろん、認知件数はそのせいもあって、ものすごく多いが、逆に死にいたるケースや、その後、犯罪者になるケースはかなり減ったようだ)。

もう一つ問題にしたいのは、日本はことばの使い方がはちゃめちゃだということだ。いじめについても、犯罪行為や学校内での集団レイプまでいじめと呼ぶのに、ちょっと友達をからかったり、仲間はずれにしたりすることもいじめとして同列に扱われる。

虐待についても、このような人殺し虐待と、子供を叱ったり、勉強をさせたり、挙句の果てには、子供に賢くなってほしい、いい学校にいってほしいと期待することまで虐待の烙印を張る。

子供に期待することを見えない虐待と言ったのは、スイスのアリス・ミラーだが、スイスは今でも子供にしっかり勉強をさせることで、高い競争力を誇っている。しかし、日本はその理論をマスコミも教育界もありがたがって、深刻な学力低下を引き起こした。

この知識社会で、子供に勉強をさせないことのほうが、「見えない虐待」「見えないネグレクト」なのではないかと、痛切に思う。少なくとも昨今の弱肉強食資本主義のもとでは、さらにその感が強まっている。