昨夜は尊敬する精神科医の集まりの飲み会。年に2回くらいだが、やはり賢い人と話をしていると本当にためになる。桜上水の陽樹というフランス料理の店。とても、コストパフォーマンスのいい、よい店だ。

あるリクエストがあって、本日から文字サイズを大きくすることにした(忘れるかもしれないが)

あと、警察のひどい取り締まりについてのメッセージ。私も同感だ。道を混ませるのは、本来の道路交通法の精神にももとるし、第一、地球環境にも悪い。警察は地球環境の敵というのが、私の今のメッセージである。

昨日のブログだが、いやみでもなんでもない。(私が自分の影響力や説得力のなさに落ち込んでいるくだりを書いたら、私のブログもちゃんと引用されていることを伝えてくれた親切なメッセージをいただいた。本当に感謝する)

現代精神分析の世界でも、人間の主観的な世界を変えていくのが主眼になってきている。

昨日も病院に行くのに、首都高速で小さな自動車に家族で乗っているのを追い抜かしたのだが、とても幸せそうな家族だった。ふと、初めて自動車を買った頃のことを思い出した。中古のスプリンターだったが幸せだった。今だとメルセデスに乗っていても、マイバッハに乗っている人間を羨ましがってしまう。

林真理子先生の下流の宴という小説を読むと、エコノミークラスに乗っているうちは、真ん中から入るので、ビジネスクラスの席を知らないで済むが、ビジネスに乗るようになると、ファーストの席が見えるところから乗り込むので、それがうらやましくなってしまうという下りがある。

すごくわかる。

知らないことは主観的には幸せの第一条件かもしれない。日本人は自分を不幸と思っている人の比率が先進国でいちばん高いらしいが、北朝鮮の人は知らないことで、あれだけ貧しくても幸せでいられるのかもしれない。グルメになればなるほど、まだ食えていないものがうらやましくなる。知らないうちは、近所のおいしい店のものを食べたくらいで幸せになれたのに。

春日武彦先生の書かれた『精神科医は腹の底で何を考えているのか』という本の中で、自分が性豪であって、風俗街の女性が寄ってくるという妄想をもっている統合失調症の患者さんの話が出ている。この手の妄想の場合、はったりでなく、本人が本当の話として信じていられるのだからとても幸せだ。

恋愛妄想の人などは、絶世の美女や超有名タレントが自分を愛していると信じていられる。普通の恋愛より幸せかもしれない。相手のいやな面を見る必要がないのだから。

自分のことを賢いと信じられるのも幸せだろう。一方的に自分の意見を送りつけて、こちらが反論しないと、完全に論破したと思っていられる人などは、本当にうらやましい。私などなら、返事が返ってこないだけで落ち込むだろう。実際、私は、頭のよさに自信がもてないから、学歴にしがみつき、少しでも賢そうに見えるような文章を書こうと心がけているし、賢そうな人の話を聞こうとする。

IT社会というのは、製造業と比べてそう人を雇う必要がないから、現実世界では、どうしても少数の成功者が出る一方、失業者や非正規雇用が増える。ところが現実世界での格差に対して、バーチャルな幸せを感じさせる仕組みも進歩する。アバターのような映画があたると、ハリウッドもCG頼りで、大量の失業者が出る一方、キャメロンやプロデューサーは大もうけできる。映画の世界も格差化するが、一般大衆はバーチャルな世界での満足度が高まり、格差社会の負け組でもやっていける。

主観的な幸せを感じさせる仕組みを発展させれば、それでいいのか?

現実世界の俗っぽい幸せを追求したほうがいいのか?

これは本当に重要な問題だが、私は後者の幸せをあきらめさせる社会には違和感を感じる。

とりあえず、俗な成功の方法論を当面は提示していきたい。ただ、こればかりはうまくいかないことが目に見える(たとえば入試の失敗や金が稼げないことなど)ので、それだけ不幸せにもなりやすいというリスクを覚悟しないといけないが。