カープファンのメッセージだが、署名は残念だったが、今後も蔭ながら応援したいことは伝えたい。

あと、学歴の意味を再考して、子供には役立てたいというメッセージは何よりうれしい。

受験生の親御さんについては、本番に弱いのは心配だが、とにかくセンター試験に対しては練習量で逃げ切ってほしい。

昨日は、『ホンマでっか』がON AIRされながら、裏で大阪のラジオに出ていた。

やはりラジオというのは、言いたいことがかなりのボリュームで話せるし、大阪の番組だととくに大阪弁で喋れるのが嬉しい。

さて、朝、新幹線に乗る前に駅でトイレに行こうとしたら、「人の心を傷つける、差別落書きをやめましょう」というような張り紙がしてあった。

まだまだ関西は被差別部落に対する露骨な差別が残るのかと思うと、悲しくなった。

私は、精神科医という立場からも、精神障害者に対する差別は許せないと思っている。それ以上に、その差別のために、精神科の門戸を叩けないとか、堂々と精神科にかかれない事態のほうがもっとまずい。

私自身は、官邸や皇室だって、もっとメンタルヘルスのスペシャリストを入れるほうが国益にかなうという考え方をしているが、首相や皇室の誰かが堂々とうつにかかったとか、精神科の治療を受けていると言えないような雰囲気のために、結果的にメンタルヘルスがおろそかになっているように思えてならない(雅子さまは例外だが、それでも批判は多い)。

ただ、もう一方で、精神科医とか心の問題をやっていると、人間の差別感情とか、誰かをスケープゴートにして、自分はましな人間なのだとか、まともな人間なのだと思いたい心理というのは、なくならないということもよくわかっている。

だから、家の中とか、人が効いていないところとか、カウンセラーの前くらいは差別的な発言は許されると思っているし、外で言わない、外で差別をしないくらいが関の山と思っている。

もう一つは、変えられないもので差別をすべきでないということだ。

私の批判のブログのコメントに、私がチビで女にもてないと書かれていたが、まったく事実なので否定する気はない。ただ、女にもてないというのは、変えられるかもしれないが(チビを差別する文化があると確実にハンディだが)、チビというのは変えられない。そして、確かに私の心は傷つく。

おそらく被差別部落出身とか、在日とか、チビとか、ブスとか、変えられないもので差別を受ける人はたくさんいるだろう。

学歴差別はどうか?確かに、これは努力で多少は変えられる。また勉強のやり方の工夫で多少は変えられる。チビや部落の差別よりは「まし」ということだろう。ただ、中卒とかいう場合、貧乏で仕方なくというケースも多いかもしれない。中卒を差別するより三流大学を差別するほうが「まし」かもしれない。

私は、何がいちばん「まし」な差別であるかの解答をもたない。

では、差別のまったくない社会が本当に理想的なのだろうか?

おそらく、差別とか職業の貴賎とかそういうものがなくなると、結局金があるほど偉いという社会になる危険は大きい気がする。

ところが、現行の相続のシステムでは、大金持ちの子供は確実に金持ちになれるし、貧乏な人の這い上がるチャンスがどんどん狭まっている。

お金がないからサービスを受けられない、医療を受けられないのは、差別でなく、資本主義の原則だというのは簡単だ。

でも、それが固定化するなら、やはり差別といわれても仕方ない。

やはり、下品なやつとか、女癖の悪い奴とか(私もそうならないように気をつけたいが)、金があるのに寄付をしないやつとか、そういう人が「差別」される社会のほうが、まともな社会になるのかもしれない。

江戸時代は、金があっても、商人は士農工商でいちばん下になるようにバランスをとっていた。大名がでかい屋敷に住んでいたから江戸時代はひどい格差社会だと主張する人もいるが、大名クラスでも結構金に困っていたようだし、そうな華美な生活が送れていたわけではない。むしろ質素な生活をして、下の範になる人も少なくなかった。

要するに弱者が弱者を差別するより、「徳のない」強者が差別されるほうが、いちばんましな社会になるだろうし、日本の金持ちも、もう少しいやしいものではなくなるような気がするのだが。

ま、理想主義かもしれないし、マスコミは、スポンサーを大事にする以上、金持ちの味方なのだろうが、そういう社会が好きだとだけは言っておきたい。

みなさんよいお年を。