昨日のブログに対して、非常に好意的なメッセージもあれば、「自分を買い被り過ぎ」というメッセージもいただいた。批判をする人のほうが下の人のことが多いというのがおきに召さなかったようだが、私は、メンタルヘルスを保つために、そう思うほうがいいというアドバイスとして書いたつもりで、私が批判の主より偉いとか、上だとかいうつもりはない。ただ、メンタルヘルスを保つために、そう思うように、自分もしているというだけだ。

ただ、たとえ私が一橋の経済学部の教授会が承認して、非常勤講師や大学院の特任教授に任じられていて、その批判の主がどこにも認められなかったり、経済学部の教員をやっていないからといって、経済について書くなというつもりはないし、私の批判をするからといって、「自分を買い被り過ぎ」などという失礼なことを言うつもりはない。人間は肩書きで決まるものではない。理論の正しさは結果が決めることであるし、誰にも発言の自由はある(名誉毀損という刑事罰に相当するものでない限り)し、素人も議論に参加できない状況のほうが、よほど学問の発達を損ねるというのは、少なくとも一橋の先生方は(東大はどうかしらないが)わかっておられるようだ(だから私のような門外漢でも経済の授業をさせていただいているし、この手の話題を含めて一緒に議論させていただいている)。

もちろん、私も実名で何冊も本を書くような僭越なことをしているし、自分のことを、あるていど買い被っているところもあるのかもしれない。ただ、本当に能力のある人も含めて、多少は自分を買い被るようなところがないと、プロダクティブな仕事などできないと思っている。多くのブログが自信満々のものであることは、決して悪いことではない。自信をもてない人が多い、自己表現がうまくない人が多い日本人にとって、現時点で、二流や無名の人が、自分の自信満々の意見をブログを通じて発信して、肩書きより内容で判断するまともな学者や政治家の目に触れて、世に出るということは大歓迎だ。

ただ、テクニック論から言わせてもらうと、言い方があまりに険があったり、攻撃的だったり、特定の個人の批判だったりすると、その特定の個人が相当影響力のある人でない限り(そうであっても、批判はあまり役に立たないと思われるだろうが)、その手のまともな学者や政治家はとりあわないだろうから、批判よりプロダクティブな意見を呈したほうが賢明だろうというアドバイスを以前にもしたことがあるがお気に召さないようだ。

さて、好意的なメッセージの主のお一人が、私が昨日のブログに書いたような意見をもつようになったのは、どういう背景からかというご質問を下さった。その方は、貧しい中から這い上がって、今は立派な学者になられているとのことだが、その間に世の中の不条理を知ったそうだ。

私が、もちろん貧乏人の出身であることも影響をしているだろうし、広島カープのファンだから弱者や貧しいものや地方の視点に立てるということもあるのだろう。とくに広島は、できの悪い世襲のオーナーが頭が悪いだけでなく、ケチで自分の財産を減らさないことに汲々しているような、典型的な世襲の弊害のような人間なので、できの悪い人間が簡単に世襲できてしまう社会の恐ろしさをよく教えてくれる。(こういわれて悔しかったら、自腹を切って、もっといい選手をとってこい!)

しかし、理論というのは、あくまでも誰が言ったかとか、どういう背景からの発言かではなく、その理論が役に立つものなのか?将来あたるのかで判断するのは当然のことで、偉い人のいっていることだから正しい、大学教授のいっていることだから正しい、素人の言っていることだから間違っている、ひがみから出た理論だから間違っているという考え方は、属人的思考といわれて認知科学では低レベルな考え方とされている(私の批判をする人の多くは、属人思考そのものの人格攻撃や背景の攻撃を必ず入れているようだから、それを相手にしないわけである)

ということで、背景に興味をもっていただけるのはうれしいが、理論をほめてもらったほうが嬉しい。

ただ、私の今の理論の背景は、もっと自分を買い被っているところからきているのも正直に告白したい。

私が亡くなった土居健郎先生の精神分析を受けているときに、土居先生がふと漏らされたことばを今でも覚えている。

「人間、死んでからだよ」

確かに、土居先生の甘え理論は亡くなってからも不朽のものだろう。

私は、日本の金持ちが、ろくに寄付もしないで、子供に財産を残して、なんになるのだろうと思うことがある。たとえば、安田講堂のようなものを建てれば、死んでからも名前は残る。

私が、柳井さんのような大金持ちなら、柳井大学を作って、合格者には奨学金年間1000万円、ただし、東大も合格した人しか合格させない、みたない大学を作るだろう。そうすれば、偏差値で東大を抜かす大学を作ることができる。東大卒業時には1000万円では目がくらまないだろうが、高校3年生なら、東大に受かっても来る生徒はいるはずだ。そして、教授陣も年収5000万円くらいで優秀な人材をそろえれば、翌年から、そこに受かるのが名誉だし、いい教授陣に学びたくて、いい学生が集まってくる。

自分が死ぬ頃にはスタンフォードみたいな大学になっているはずだ。

ただ、私は大金持ちになれなかったし、小説家や大学者のような形で名を残すことはできないだろう。いい映画を撮りたいというのは、その夢の影響もあるかもしれない。

その中で相続税100%という主張もその一貫だ。

何十年先か何百年先になれば、やはり相続税しか高齢社会の財源はありえないものだと私は、高齢者の医療を行っている実感から、本気で信じている。

おそらく私の目の黒いうちは実現しないかもしれないが、そうなった際に、昔、それを予言していた人間として再評価されるかもしれない。

こんな馬鹿なことを考えている。

ただ、死後に名前を残したいと思ったら、比較的純粋になれるし、汚いこともできなくなる。

人間の動機づけとしては意外に好ましいものかもしれない。

私は金持ちに嫉妬していると散々書かれるが、本当はただで相続税100%では気の毒だとも思っている。

たくさん相続税を払った人は、子供に爵位でもあげればいい。「今は貧乏だけどおじいさんがえらかったからうちは男爵なのよ」といえるようにしてあげればいい。

金よりも、その人の人生を残すほうが価値があると、だんだん死を意識する年齢になると感じているだけの話である。

ところで、昨日は娘の成人式の写真撮りだった。

娘の成長を喜ぶとともに、親として娘に財産より、能力を残してあげたいのだが、それだけ、これまでよい父親でなかったことを反省する日でもあった。