昨日のブログに
「先生は反対意見の人に対しても、きちんと感情的になられずに対応されていらっしゃいますね。<不愉快という表現は使われますが
私はどうも、自分の考えをまっこうから否定されると、顔にだしてはいないつもりでも感情的になってしまいろくでもない反応をして反省しきりです。
それもこれも、先生のように、冷静に、論理だって、筋道だって話すことができてないからかと思ってしまいます。」
というメッセージをいただいた。

これは買いかぶりであることを素直に伝えておきたい。私だって怒りくるっていたが、書き物の場合は、まだ多少は冷静になれるということだろう。だから、私は討論番組はいまだに苦手だ。つい、感情的になってしまい、あのとき、あんなふうに言い返せばよかったと後悔することしきりだ。

また私は感情的な人間なので、この人のメッセージは1日不快な気分になるので長い間あけないようにしていたのだが、多少言葉遣いが変わったので、うかつにあけてしまったのだ。

ただ、時間をおくというのは大事なテクニックかもしれない。その場で反論しようとするから、感情に支配されやすい。

現実に、昨日に書いた反論より、本日のほうがまともな反論ができる。

不毛な議論につきあわされると思われるかもしれないので、本日でやめるつもりだが、私の考え方につきあってもらえるなら幸いである。

さて、昨日のおさらいだが、このメッセージの主は、私の書き物について、「一般の人に間違った認識が浸透してほしくないからです。」ということで、私に経済を論じるなといっている。自分は一般の人だと思っていないという点からして不遜だと思うが、そもそも「間違った認識」とは何が言いたいのだろう。

私はかねがね、1+1=2を疑えというようなことを主張している、つまり経済であれ、医学であれ、定説を疑えということだ。しかし、それは1+1=3と主張することではない。これがいわゆる「間違った認識」というものだろう。

たとえば、法人税を上げて経費を認めたほうが経済が活性化するのか、法人税を下げたほうが活性化するのかは、やってみないとわからないことで、どちらが正しくて、どちらが間違った認識ということはないはずだ。結果が出るまで、結果を比べるまでは、「可能性」であり、「仮説」である。仮に後者で経済が活性化しても、前者を試してみないことには、前者のほうがもっと活性化するかもしれないから前者を否定することはできない。

昨日の私の反論にしても、江戸時代のほうが家の広さに差があったから格差が大きいという見方と、加賀藩でさえ、財政が逼迫していたから、金融資産の格差は今よりはるかに小さいものだったという見方は、価値観の問題で、私がそのメッセージの主が「間違っている」というつもりはない。

しかし、「株というのはハイリスクで資産を失う可能性が高いということぐらい普通の頭をしていたらわかるはずだ。普通に働く分には全くのノーリスクで、資産を失う可能性は低い。そういう労働と株式投資を同一視して税率を見比べるなんてとんでもない話だ」というのは、間違った認識だろう。

新古典派であれ、ケインズ学派であれ、クルーグマンであれ、ラビ・バトラであれ、どうすれば経済が活性化するとか、どうすれば生産性があがるかとかについては、各々違った仮説体系をもっている。

しかし、どの学派であれ、労働がタダでノーリスクだなどという考え方はしていない。労働力だって、財であり、資産であるというのは、現代経済学の共通認識であり、労働力がタダというのは、古代にまでさかのぼった発想だ。

要するに労働だってみあった収入が得られないと、損をする。しかも、現在のような不況であれば、会社が働いた給料を払ってくれないというリスクが現実に起こっている。体を壊したり、最悪、過労死のリスクすらある。ノーリスクで金を得ているなどということがあるはずはない。

もう一つ言っておきたいのは、このブログの主は、現在の税制がまったくわかっていないということだ。

所得税というのは、勤労に対してのみ発生するものではない。個人事業主の場合、たとえば店をやっている場合、仕入れや店の家賃などを含めて、きちんとリスクをとっている。そこで得た所得に対して税が課せられる。借金をして金を稼ぐことだってある。株がハイリスクだといってもマイナスの株価になることはないが(借金をして株を買ったり信用取引の場合は別だが)、事業の場合は、借金が残ることさえある。

また株で1億円の損をしたという場合、お金だけの損だが、事業で1億円の損をするという場合は、労働やアイディアをつぎこんでも、それをのけて1億円の損失ということだ。つまり、損失は1億円プラス労働プラスアイディアなのである。

同様に1億円の利益についても、株なら純粋に利益だろうが、事業の場合は、労働やアイディアが入っての1億円の利益である。

なのに、株のほうがずっと税金が安いのだ。これが不条理だと私は言いたいのだ。

株式会社を経営する場合、短期間の利益を得るための株主より、安定株主のほうがありがたいのが通常だ。株式の譲渡益が高いから株式市場から手をひく人間は、むしろ経営側からいうとありがたい存在だ。

このブログの主は、損失が引き継げないといっているが、株の場合は、忙しい金でやらない限りは、売るまで損失は確定しない。現実に私はリーマンショックで1億円以上の評価損を抱えているが、売らないから損失は確定しない。株が上がるのを待って、利益の課税を減らすために、別の株で損切りをするというのが常道だ。このブログの主は私が株をやらないように思っているようだが、リーマンショックの前の2年間で実は5,6000万は株で稼いでいる。ただ、本を40冊も書く印税と株の金儲けで株のほうがはるかに税金が安いので、自分で不条理を感じたから、株の利益をもっと課税しろと言う気になったのだ。もちろん、リーマンショックで1億円以上の含み損を抱えるようになってもこの考え方は変わっていない。人生、さまざまな経験をして、ほかの仕事や事業でも損をした(結果的にタダ働きになって、お金では損をしなかったが労働力やアイディアを損したことも含めて)ことがあるから、株の損だけが特別なものと思えないからだ。

しかし、事業(法人税もふくむ)や所得税は、翌年損するかもしれないからといって待ってくれない。その年のうちに確定されて課税されてしまうのだ。

これについても、私が正しくて、このブログの主が間違っている、つまり株の課税が高いほうがいいか安いほうがいいかに正解などないと思っている。

しかし、労働力はタダという発想は、明らかに間違っているし、どの経済学者もしないはずだ。

おそらく、株の税金が安くて当たり前ということを正当化したい金もちのうその受け売りなのだろうが、経済を語るなら、恥ずかしいからそんな言い方はやめたほうがいい。

もっともこのブログの主は、「一般の人」でない、この世の経済学とは違う、別の経済学をお持ちの人なのかもしれないが。