一部、激励もあったが、批判メッセージが多くて朝から不愉快な気分である。

ただ、こういうことにかかずりあっているのは、読者にとっては面白くない(当然と言えば当然のことだが)ようで、アクセス数は、今週は毎日のように減っている。

実際、すべての読者を満足させることはできないのは当然のことだ。とあるメッセージの主のように、読者登録をやめるというのが賢明なことだろう。

昨日のような話で、被爆者や核廃絶運動をやっている人の気持ちがわかっていないと言われても、たとえば被爆を売りにして五輪の招致はいけないことかどうかは哲学の問題だろう。被爆者の方がどれだけ生き残っているかわからない先の話ではあるが、このニュースを喜ぶ人も、不快に思う人もいるはずであって、前者がいけないことはないとしか思えない(後者の感じ方ももちろん尊重されるべきだが)。

被害者が絶対に正しいという考え方が日本ではどんどん強くなっているように思える。(女の子をいじめたのを教師に胸ぐらをつかんで叱ったら、そのいじめた子が自殺したケースで、莫大な賠償金が遺族に払われることになったという。もちろん、賠償金の出所は税金である)私にしても、今回の五輪招致は被爆者のためにやるのではないとは思っている。ただ、広島と長崎に世界の人が来てもらえるのは悪いことではない(アメリカでは被爆者の写真などの展示はまずありえない)と思うし、核兵器が落とされた町が、経済的な補償を受けるのは重要なことだというのが私の考え方だ。

ただ、広島や長崎が日本の代表に選ばれることのほうが難しいという報道があった。原爆が落とされたのは国際法に違反していないと、自国の役人が外国で言明するくらいの国だから、被爆は外国人のほうが同情するのかもしれないが、日本人には、「核を落とされて何十年もたって、お前らだけがいい思いをするのかよ!」という感情があるのかもしれない。もともとは被爆した市民を元気付けるために市民の募金で始まった広島カープがせっかく強くなっても、よくやったと思われず、逆に広島がせっかく育てた選手を東京や大阪のチームが堂々とむしりとることができる制度を、選手の人権を持ち出して採用する国民性なのだ。これをきっかけに広島経済が立て直るのが不愉快なのかもしれない。ジャイアンツファンにすれば、東京が落ちたのに広島が五輪招致ができたら不愉快で許せないだろうし、東京のメディアもどれだけ応援するかわからない。現に広島・長崎の立候補に東京と大阪に本社をもつ産経新聞は批判的な記事を載せていた。そういう点橋下知事は阪神ファンなのに偉いが。

さて、私は何度も、貧富の格差をなくさないと日本人の消費がどんどん冷え込んでしまう懸念を訴えている(現に若い人が本当にお金を使わなくなっているが)。何が心配といって、中国や韓国の人が観光にきて、日本が予想外に貧しい国と知って、日本人のライフスタイルに憧れをもたなくなることである。貧しい国の商品は憧れられないから、「高くてもいいもの」とは思ってもらえない。すると価格競争、スペック競争になってしまうが、残念ながら、莫大な低賃金労働者を抱える中国にはまず勝てない。

物価は高くても高賃金の昔の日本に戻さない(ブランド国家として成功しているスイスはこの路線だ)と、日本の競争力はどんどん弱まる。自由化や規制緩和、民営化でものが安くなったと思う人がいるが、デフレの根本原因は低賃金化だろう。国民が豊かなら高くてもいいものを求めるから、回転寿司やユニクロがこんんなに売れたかどうかはわからない。むしろ昔のユニクロのようにバカにされたかもしれないのだ。

これはあくまで仮説である。ただ、91年から94年に留学して、まずしいアメリカをみてきた私にはそれが本当のように思えてならない。当時は、ウォークマンがアメリカの10倍の値段がしても、カセットケースサイズなら売れたのである(アメリカのは初代の弁当箱のようなサイズだった)。これなら高賃金でも起業はやっていける。輸出企業が内需に目を向けたら家電も自動車も売上高人件費比率は10%程度なので、賃金を倍にしても、コストは1割しかかからない。しかし、大衆の可処分所得は2倍以上になるので、価格を3割上げた新製品を出しても売れるはずだ。高賃金、高物価国家のほうが利益が出るはずだ。しかし、輸出の競争力を考えると賃金を下げることになり、内需が落ち込み、余計に賃金を下げることになる。国際競争力の幻想を捨てろというクルーグマンは私には正しいと思えてならない(理論的というより直感的に)

と思っていたら、養老先生と徳川家の末裔の人が、貧乏を笑い飛ばし、誇りをもてた江戸時代の知恵を見習えという対談が載っている雑誌の記事を目にした。

実はその対談はエネルギー問題、女性の地位の話など示唆に富む話が多くて、金のあるなしより、モラルを重視したという話は、ごく一部の話だった。

ただ、日本人が憧れられるというのが、豊かな国としてアジア諸国から憧れられるという方向性だけではないということにも気づかされた。

江戸時代の日本は、戦争が弱かったから当時の帝国主義に屈服しないといけなかったが、欧米に対して本当は卑屈になる必要はなかった。知的レベル、教育レベル、礼儀、生活の清潔さ、食事の繊細さなどいろいろな意味で欧米に勝っていた。

このまま日本の為政者や経営者が内需より国際競争を重視して、低賃金路線、法人や金持ちの優遇路線を続けて、大衆が貧しくなっても、外国に、とくにアジアの国にバカにされない方法はないわけではない。

国民の教育レベル、教養レベルを思い切り高く保ち、またモラルも高い国、清潔な国にしておけば、観光客も満足するだろうし、多少は日本に憧れるだろう。

私だって、この国の方向性をひとつの可能性でしか考えないわけでない。要するに日本が外国にバカにされない国であればそれでいいのだ。ただし、貧しい国は戦争に弱い。自前で武器が作れないから、アメリカなどから買わないといけないが、その金が用意できなくなる。今の時代、戦争なんてないだろうと思えばこの選択肢もありだろうし、江戸時代の日本は文化的、教育レベル的に欧米をはるかに凌駕していたが、戦争に負けないために、日本流を捨てることになった。

それでも、貧しいが頭がいいというのは、訴求力がある。教養や文化レベルが高いのはもっと訴求力がある。

そっちのほうでもアジアにバカにされる国になっているように思えてならない。