おそらくインテリジェンスの高い人だろうが、9月8日の私のブログに対して、競争がかえって(少なくとも長期的な)パフォーマンスを下げるという研究(コーン、デシなど)を紹介してくれた人がいる。

確かに9月8日のブログは書き方が過激だったかもしれない。私は競争至上主義でないし、競争原理ですべて解決すると思っていない(『富裕層が日本をダメにした!』《宝島社新書》参照のこと)。

ただ、競争の過小が問題で、どの学校がどの程度の学力状況にあるのかの開示程度すらできないことを問題にしたのだ。もちろん、私の考え方では、アメリカのように学力の高い学校に予算を多くつけるというインセンティブシステムより、低学力校に予算をつけるフィンランド方式のほうが妥当と思っている。この手の情報の開示がないと、解決は、いわゆる地元の教育のボスたちの手にゆだねられてしまう。これこそが思い上がりだし、解決の糸口もつかみにくいし、学力がその後、どうなったかも納税者には闇の中だ。

ただ、競争も強制もしないで子供に勉強させるというのは、いろいろと別の条件が必要となる。勉強ができることがかっこいいという価値観や、周りがみんな勉強する環境である。フィンランドの場合は、日本のバラエティ番組に相当する番組がなく、夕方に帰ってくる家族とともに見る人気番組は、1に討論番組、2にニュース、3にドキュメンタリーだそうだ。勉強ができるより、お笑いや美人やイケメンのほうがいいというテレビ番組に規制がかけられるならいいが、そうでないとある程度の強制力がないと学力低下は防げないだろう。

また学力をつけるというのと、職場のパフォーマンスを上げるというのも別次元の問題だ。職場の場合は、すべての従業員の合計のパフォーマンスが問題になるので、協働型のほうがいいことは、EQの著者のダニエル・ゴールマン氏らも指摘している。しかし、少なくとも義務教育の場合は、最低限の基礎学力を個々人に叩き込まないといけない。

いずれにせよ、競争をインセンティブにする子供(大人も)と、そうでない子供がいることは確かだ。競争を取り上げてしまうと、前者の学力が落ちるし、意欲も落ちてしまう。競争もあるが、ほかのインセンティブも用意するほうが妥当で、ほかのインセンティブがあるから競争を排除するというのは、大衆教育には向かない。

コーンは読んでいないが、デシについては、アメリカ版のゆとり教育の理論的支柱だった。この政策が失敗した際に、多くの心理学者は、「内発的動機のある子には、競争や強制が意欲を落とすが、それが弱い子にはやはり外発的動機が必要だ。学力が下がったということは結果的に前者が少なかったということだろう」というような意味の総括をしている。

アメリカで人気がなくなってから、日本で人気がでてきて、日本の教育心理学者の理論的支柱になったというのが現実のようだ。

ということで、少なくとも競争だけがインセンティブではないが、競争の過小は危険だと考えている。

さて、OECDの発表では、日本の公教育支出はOECD28か国中27位だったそうだ。民主党のマニフェストの子供手当てや高校授業料の無料化が実現すれば順位が上がるという。

ところが、この政策はバラマキといわれている。

高校の授業料の無料化などやっていない国のほうが少ないし、フランスなどでは子どもを産めば、たいてい食べていけるくらい手当てが手厚いから少子化を脱却したそうだ。

少なくとも先進国で当たり前の支出をバラマキというべきでない。それより、道路に年間15兆も使っていることが異常だ(道路予算のほうが公教育支出より多い国は先進国では日本だけだ)。

人口も減り交通量もへるのに、道路予算だけは潤沢という。

民主党も無駄をなくすというのなら、道路は半分を公言したらどうか?

それだけで来年度から実施予定の予算7.1兆円を十分まかなえるのだ。

ちなみに道路工事の旗振りに国が払っている予算は一人3万円だそうだ(いくらピンハネされているかは知らないが)。一方で、介護労働者には一日7000円くらいしか払えないくらいしか、介護報酬を国は決めていない。

道路と老後とどちらが大事か、超高齢社会の今こそ考えるべきだ。