昨日は、私の現在いちばん親しくしているアメリカ人のワイン商、リチャード・トリンさん(前にも書いたことがあるかもしれないが、アメリカでいちばんたくさんロマネ・コンティを売っている人だ)のお宅を尋ねる。

カリフォルニア・バーベキュー(素材の味を活かしているという点では、アメリカで食べるにはおいしい。肉は日本にはなかなか勝てないが、とうもろこしとポテトは異様においしかった)

ワインはピーター・マイケルの94年(PP94点)と、ハーラン・エステートの92年(PP96点)。

こんなワインが当たり前に出てくるのがすごい。ハーランもよかったが、94年というアメリカワインの当たり年のピーター・マイケルは本当においしい。(パーカーポイントはそこまでは高くないのだが)最近、10年以上経ったアメリカワインで、こけることが多いのだが、口当たりのやわらかさが非常に舌に優しい。

今回は、ちょっと倹約旅行だったので、いいワインを飲んでいないので、本当においしかった。

さて、昨日のブログに対して、予想通りというか、子どもを産む権利に国家が介入するのはどうかというメッセージをいただいた。(思ったより反響が少なくて寂しかったが)

国民の権利というものも確実にあるが、その実現のために国家が国民にがまんさせることも確実にある。

たとえば、貧乏な人の生存権を守るため、あるいは一般国民の身を守るために警察を雇うために、漸近を払ってもらうというがまんを強いる。

もちろん、全体主義の国や共産主義の国は、無理やりに我慢を強いさせることになるが、別に選挙の公約で、たとえば一人っ子政策をやるといった政党が与党になれば(おそらくはそんなことはないだろうが)、そういう政策は打てないことはない。要するに国民にどれだけ我慢させる政党を選ぶのかは、選挙で決めればいいのだが、日本の場合は、選挙のときに耳障りのいいことしかいわないから、いろいろと問題が出るのだろう。国歌・国旗法だって、薩摩の旗かもしれないという不快感はあるものの、それ自体は別に悪い法律ではない。というか、それまで日本は法律で国歌や国旗が決まっていなかったのだから。ただ、強制はしない(がまんはさせない)といいながら、学校現場で明らかに強制しているのが問題なのだろう。

という点で、私は、この国を復活させるための我慢がいくつか必要だと考えている。

金持ちに対しては、累進課税の復活と相続税の大幅増税だろう。

これについても、金持ちいじめをするつもりというわけでなく、第二次世界大戦前のドイツ、戦後、トルーマン時代のアメリカ、高度成長期の日本など、貧富の差を小さくする税制を取っていた国が繁栄していた歴史から、国民の消費を増やし、強い国にする必要性があると思うから主張しているだけだ。

私は、今のところ軍事予算に金をかけるのは、富国の観点から損だと思っているが、9条を残したままの徴兵制なども面白いかもしれない。若者にがまんを叩き込むにはそのくらいしか方法がないかもしれないからだ。(9条だって便利な法律だ。これがあるから徴兵制にしても、国際世論をかわしやすい)

そういう我慢政策の中で、一人っ子政策だって、成績や社会的規範を義務教育で身につけられなかった子どもへの全寮制教育だって必要だと考えているのだ。

私にとっていちばん絶えられないのは、日本が劣等民族と思われるようになってほしくないことだ。だから、教育を受ける義務(これは法で規定されていない)、受けさせる義務という我慢は重要時だが、コンセンサスはできるのだおるか?

たしかにアメリカにくると、一般国民はオバカなのに、劣等民族と思われない。国が強いと、そういうこともありえるのだろうが、インドやフィリピンなど、優秀な人がいても、3流国に見なされる国もある。

インドは大衆のレベルも高いようだが、一般的には大衆のレベルの高さが民族の優秀さとみなされるのではないだろうか?そういう点ではインドは、IT社会になってから挽回がめざましい。インド人であると言うだけで、数学ができると思われ、アメリカでは就職に有利だそうだ。

基本的人権を守るというのも、国家の仕事なのだろうが、どこまで権利を守るかは国によってまちまちだろう。

私が思うに、やはり最大の人権は生きる権利だろう。

外国にぐちゃぐちゃ言われたときに、中国のかつての首脳は、我々の人権を守るための最大の仕事は民を飢えさせないことである、ホームレスを大量に作る国に人権といわれたくないという反論をしたという話を聞いたことがあるが、確かに勝てるものが権利を主張しすぎて、その国の人間の末端の人の生きる権利まで奪うのなら本末転倒だ。

多少我慢はお願いするが、この国に住んでいる以上、一人も飢えさせないという政治の原点に返らなければいけない日が日本にも近づいている気がしてならない(確かに、今の私は贅沢しているが、高額所得者の増税は甘受する覚悟はできている)