昨日は、眞木準さんのお別れ会。民主党のマークを作った浅葉克己氏もきていた。そのほか、久しぶりに会う顔も多く、眞木さんの顔の広さを思い知らされた。

その民主党の鳩山由紀夫が、「世襲が日本の政治をゆがめてきた。世襲の私が言うのだから間違いない。」と演説の中で語ったそうだ。彼が世襲とはいえ、わざわざ北海道を選挙地盤にしたのは確かに許せる話だが、小渕優子の選挙区で民主党が独自候補を立てないことはどう弁明するのだろう。これで何期目かわからないが、日本でいちばん一位と二位の差がつくのが、群馬5区になるだろう。日本でいちばんの封建制の(北朝鮮のような世襲の)地域の汚名を背負うことになるわけだが、選択肢がないのだから、気の毒といえば気の毒だ。

昨日の続きで、成人年齢を18歳に引き下げることについて。

意外に鋭かったのは、夜回り先生・水谷修氏の毎日新聞のコメントだ。

これを契機に、年金や保険料の支払い年齢を18歳まで引き下げたり、少年法も18歳以上は適応されないのではないかという恐れである。

これは妥当なおそれだし、要するに大人波の判断力や能力があるとみなすという話なのだから、そういう裏の狙いがなくて、18歳に選挙権を与えるわけがない。権利というのは義務がセットでやってくる。

さて、私が不快に思うのは、学力低下世代だとわかっていて、なぜ彼らの判断力をことさらに評価するのかということだ。

私は、高齢者を専門とする精神科医だが、高齢になって認知症になったり、ならなくても知的能力・判断力が衰えてきた場合、刑事だけでなく民事の責任能力も衰えたり、喪失したりするとみなす制度がある。これが成年後見制とよばれるもので、知的機能が衰えているので、だまされて契約させられたりすることから守る目的がある。一人暮らしがとても無理というのに、老人ホームに入る判断力がないとみなされれば、後見人の判断で老人ホームに入所させるということもある。

もちろん、これらの高齢者も選挙権は認めているのだが、知的機能が衰えている人は、多少権利が阻害されても、かわりに保護して行こうという精神は、子供を子ども扱いするのと同じ考え方だ。

子供は大人と同等の権利は有さないが、たとえば大人が子供をだまして契約しても、民事上の責任能力がないので、保護者がそれを認めないと商行為は成立しない。

過激な言い方をさせてもらうと、知的機能や判断力に自信のない人は、18歳から25歳くらいまでは大人扱いしてもらうか、あるいは子ども扱いされる代わりに保護されたり、あるいは年金や保険のお金を払わなくていいかを選択させればどうかと思う。本当は大人扱いされるための、ある程度の知的機能のテストがあってもいいくらいだ(実際、高齢者の場合はテストの成績で責任能力や判断力の衰えや有無を裁判所が決めることになっている)。

年齢主義より、大人の資格が何なのかという議論をもう少し進めて欲しかった。今の20歳が昔の16,7歳の知的能力ということはあっても、今の18歳は20歳に認める根拠が乏しすぎるのが実情だろう。

それをあえて、この時期に18歳成人が妥当というのは、水谷氏のように裏読みが必要だ。

もう一つは、基本的に権利と義務はセットだということだ。人を殺して、心神喪失の判断を受けることは、一般の人には不満だろうが、精神科医の立場からすれば、ありえることだとは思う。

しかし、そういう人が選挙のときだけは、判断力があるとか、商行為では判断力があるとかいうのは、ちょっと納得しづらい。心神耗弱はともかく、心神喪失なのだから。

そういうことも含めて、もっとまともな議論をしてほしい。

ただ、テレビ局の連中は、もっとバカが選挙権をもつことで、もっとテレビの影響力が強まると喜んでいることだろうが。