まずお詫びか

あまりショックで動転して、林真理子先生から電話をもらって、眞木準さんの訃報をブログに書いてしまった。

私自身、まだ文化人と名乗れる身分ではないが、有名人や自分の名前で仕事をしている人は、やはり世間に死を公表する時期というものがあるのだろう。無用の混乱を関係者におかけして本当に申し訳なく思うし配慮がなかった。新聞情報でなく、一次情報で偉い人の死に直面した初体験であったために、社会人として恥ずかしいことをしたとおもっている。

翌日、指摘されて、あわてて消した内容は、おおむね眞木さんにいかにお世話になったかの話である。

実際、分不相応に高知のオープンカレッジの実行委員長などを引き受けてしまったため、右も左もわからない私をリードし続けてくれた人の突然の死に茫然自失だったし、何の恩返しもできず、罪悪感でいっぱいである。

実は、昨日もエンジンの幹事会があったのだが、その話でもちきりになり、幹事会がまともに進行しないほど、みんな涙で声をつまらせていた。各界の超一流の人がみんな泣いてくれるところがすごい。改めて眞木さんのすごさを見せつけられた。能力以上に、人間としてのすごさを。

さて、本日は、国際医療福祉大で、かなり悲惨なトラウマ体験のあるクライアントの話を聴いていたら、本日も心のよい主治医に出会う方法がないのかというメールをいただいた。

どこにお住まいかわからないが、一県一医大の地域が多い現状で、その県にある大学医学部の精神科の教授がくずだと、その県にはまともなトレーニングを受けた医者がいなくなってしまう。

そうでなくても、全国80医大の教授のほとんどが生物学的精神医学といって、脳や薬の研究者ばかりが精神科の教授になっている。論文の数(とくに英文の論文)で選ぶとそういうことになるのだろうが、精神科の教授というのは原則的に、その大学医学部の精神科以外の教授で選ぶので、要するに日本中の、大学の医学部の教授は、内科の教授も産婦人科の教授も小児科の教授も、みんな精神療法やカウンセリングがいらないと思っていることを意味する。

私だって、呼ばれたら、日本で唯一心のケアができる医者を養成する機関になるわけだから、収入が激減しても引き受ける心づもりもあるし、学位も英文の論文もあるが(運よくLancetに共著論文もある)、日本では大学の医学部の教授になるような人はみんなこの程度の見識なのである。精神療法ができる教授を呼べば、今不足している研修医だって確実に呼べるはずなのだが。制度をいじれというだけで、研修医のニーズに合わせる気もない。

というわけで、本当に精神科の名医を探すのは難しい。しかし、最近、想田和弘監督の観察映画第二弾の『精神』という映画を観たのだが、おそらく、自己流なのだろうし、けっこう高齢なので、生物学的精神医学の前にトレーニングを受けた医者なのだろうが、本当に真剣に患者に向き合う精神科医の姿に私はむしろ心が打たれた。

ドクターショッピングを批判する人は多いが、アメリカ留学から帰ってきた立場から言わせてもらうと、こんなくずな精神科養成システムしか持っていない(私の『精神科医は信用できるか』の匿名の精神科医からのコメント(このコメントがいちばん人気があることで、患者のほうも自分で自分の首をしめているのだが)「博士論文が動物実験で行われるのには、きちんと理由がある。動物実験は人間では行えない、つまり生命を損ないかねない危険な実験を、生命システムが似た動物を代替に行うのである。人間でできる実験などは、はっきり言えば誰でもできるし、やる価値もあまりないのである。博士レベルに求められるのは、斬新で、過去に例がないカッティングエッジな実験であり、質的研究ではなく、統計処理された量的研究なのである。それが未だに理解できないから、著者は科学者として二流なのである(原文ママ)」と言い切っている(ここまで言うのなら、匿名でなく名乗り出てほしいが)。

日本からカッティングエッジな研究は精神化領域ではこの30年ほど出たことはないし、American Jounral of Psychiatryのカッティングエッジな本の中で単独の著者のもののトップはコフートだったのだから、こっちのほうが学者として二流だと思うが、少なくとも日本の精神科医にはその程度の見識しかない。ただ、内科や外科の教授たちも臨床能力より動物実験でなった人が多いので、この見解に肩をもつのだろう)

出会いを求める効率を少しでもよくしたいのであれば、この『精神科医は信用できるか』に、私が信用している精神科クリニックや病院のリストを載せたので参考にしてほしい。ただ、名医ほど忙しくて時間がとれないのも、この国の病理である。