ブログ宛の手紙にときどき目を通しているが、気になったことを書いてきた人がいる

その人と議論する気にはならないが、世の中の人に知ってほしいことなので、一言触れておきたい

飯島愛が自殺したかどうかは私には確かにわからないが、最近の自殺学の考え方では、たとえば自殺報道の後に向こう見ずな運転をする人が増えるだとか、要するに死んでもいいと思うような行動をする場合は、自殺の亜型と考える。

もちろん、アルコールに溺れたり、薬を過量服用するというのは、その最たる例だ。覚悟の自殺だけでなく、死んでもいいと思ってしまうところにうつの悲しさがある。おそらく飯島愛は自殺者にカウントされていないだろうから、こういう人も含めると日本の自殺は5万人は優に超えているだろう。

右翼とか保守という人たちは日本人の命を守るために軍備を増強しろというが、5万人の死は見殺しで平気だ。今日も4億も脱税した芸能プロの社長が告発されたが、右翼たちは責めないだろう。彼の脱税分だけで、200人の生活保護費が出せる。実際の所得隠しは12億だが、日本では多少の罰金はあっても懲罰的な課税はないから、ちゃんとお金が残る。12億全部生活保護にまわせれば600人分だ。第一右翼自身が、愛国とかいいながらろくにお国のために税金を払わないのだから。(もちろん、税金で天皇陛下の生活が支えられていることを考えたら、陛下のことも愛していないことになる)

その人は、うつで自殺した人の悪口を精神科医のくせに書いたと私を批判した。しかし、私は精神科医なのにでなく、精神科医だから死んだ人の悪口を書いたのだ。

私の基本的なスタンスとしては、うつの人について死ぬ前は徹底的に愛して、死んでからはぼろくそに言っていいと思う。世間の人は、死ぬ前はあまりかまわないで、死んでから同情したり、いい人だったという。行動主義の考え方でいけば賞と罰が反対になっている。これでは自殺を助長するだけだ。飯島愛だって、死ぬ前にどれだけ愛されていたのか?でも、死んでからみんないい人になる。逆にしていれば、自殺行動(自殺と決めてはいけないにしても、自殺行動とはいえるだろう)をしなかったかもしれない。

行動主義的な治療の場合、外から見ると一見冷たく見えるかもしれない。たとえば心因性の喘息の患者さんについて、家族の接し方をみる。発作を起こしているときに、家族があわててかまうのに、発作を起こしていないときは家族が安心してでかけるとすれば逆にしろという。発作を起こしているときは、吸入器か何かを与えて放っておく。発作を起こしていないときは、むしろ家族が喜んで、遊びに連れて行ってあげる。
発作をおこしていないときが適応行動なので賞を与え、発作を起こしていないときは不適応行動なので罰を与える。自殺行動をする患者さんだって、死なないことが適応行動なのはいうまでもない。

先日、自殺した永田氏についてはかばったように見えるかもしれない。あれについては、私の『憲法改正論』を読んだ人ならわかってもらえることだろうが、私のかねてからの主張だ。ただ、それでもこの時期に書くのは不適切かもしれない。

精神科医だって、医者なんだから、結果で判断されるのは仕方ない。結果をよくしたければ、死んだ人間を悪く言うことになるし、死ぬ前は全力で頑張る。そんなこともわからない人間に批判されたくない。

そういうスタンスでやってきたから、この18年間、患者さんに死なれていない。逆にいうと、18年前に自殺で診ていた患者さんが亡くなった。それが悔しいから、今でも患者さんにまじめにできるだけ死なれないように接している。若い人より自殺率の高い高齢者を対象にして、外来患者も年に3000人は超えている。精神科医と名乗るなとかいうのは、結果で判断すべきだろう。口が悪くて腕のいい医者と、愛想だけよくて腕の悪い医者なら、私は前者を選ぶ(どちらもいいに越したことはないが)

人の命は重いし、死んでから大事にするというのは、私にはしっくりこない。生きている人間をもっと大事にする政策をしてほしいというのが、今の政治に望むことだ。この不景気の中で歯を食いしばって頑張っている人間がいるのに、自殺した人間に同情する必要があるのか?むしろ大切なのは、死なれた(生きているほうの)家族のメンタルヘルスと生活を守ることだろう。

どんな状態でも人間は生きていてこそ価値があると私は信じている。