昨夜は波頭亮さんに誘われて、東大の先端研で、学生相手の勉強会の講師をする。

自分の職業観をざっくばらんに話せばよかったのだが、思ったより学生が熱心で、まともなディスカッションになる。昔は学校名関係なしに、読書家や熱意ある学生がいたが、今は学力の高い学生のほうが本も読んでいるし、熱意も高い。ゆとり教育の弊害の大きさは、いわゆる二流、三流の学校ほどひどいのだろうし、逆に一流の大学を出た人しか集まらない一流企業やマスコミや官僚の世界では、ここを気づいていないから的外れな教育論議になるのだろう。

私が言ったのは、世間の常識にとらわれずに、いろいろな仮説を立てられる大切さなのだが、逆に言えば、世の中、絶対に正しいことなどそうはない。人間が死ぬ確率は100%なんていうのは、その一つかもしれないが。

朝起きてみると、テレビの情報番組で、元厚生事務次官連続殺傷男が自首してきたというニュースが大々的に取り上げられていた。

車で警視庁まで乗り付けてきて自首してきた件について意見を求められた犯罪臨床心理学者というコメンテーターが、「自己顕示欲のように思われるかもしれないが、強迫的なパーソナリティによるものではないか?」というコメントをした。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

ただ、心理学というのはいろいろな仮説を出すことに意味がある。自分の知識をもとに、人と違う仮説を立てることで、別の見方や切り口が可能になるからだ。

もちろん、それが正しいとは限らない。

新聞の書評欄を見ていると、実験心理学の立場から、オオカミ少女(オオカミに育てられた少女の言語機能などの話)が実は作り話だったと喝破した本が出たという。

これにしても、もう昔の話だから、やはり仮説に過ぎない。正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。事実は小説より奇なりなので、理論上はおかしくても実話かもしれない。あるいは、これまで世界中の教育心理学者や発達心理学者がその存在を信じたのだから、この本の著者の学説が偏ったものなのかもしれない。

ただ、自分の学んだことをベースに定説を疑うという姿勢(この本を読んでいないので、自分の説が絶対に正しいという書き方をしているなら、この学者もただの決めつけ屋ということになるが)は評価できる。

心理学に限らず、学問を学ぶとは、ある物事に対して、専門性に基づいたり、自分の学んだものに基づいて決め付けるためにあるのではなく、それを知らない人に思いつかないような仮説を立てられることに意味があると私は信じている。