日本人がノーベル賞をたくさんとるのは、国民の自信やプライドを高めるし、何より、子供たちの知に対する憧れを強める。

ふだん芸能人やスポーツ選手ばかりをかっこいいと思う子供たちが、頭のいい人をかっこいいと思ってくれるのは教育上、非常にありがたいことだ。

しかし、いっぽうで、日本人のノーベル賞コンプレックスにつけこんで、ノーベル賞学者たちが、大して教育現場をみてもいないのに、あるいは統計データなどを無視して、教育政策に介入し、そして、ゆとり教育の旗振り役を演じて、日本の一般の子供の教育をぼろぼろにしてきたことも、事実だとしか言いようがない。

たとえば、江崎玲於奈というノーベル賞学者は、教育国民会議の議長として、日本人にノーベル賞が出ないのは、詰め込み教育のせいだとのたまって、現行のゆとり教育の強力なサポーターになった。

ただ、義務教育の目的は、国民の基礎学力の増強であって、ノーベル賞をとらせることではない。ノーベル賞を増やしたいなら、高等教育の改革をやるべきだろう。

野依良治というノーベル賞学者も、教育再生会議の議長であったが、せっかくの学力再建のために始めた会議が、統計学的には無視できるようないじめ問題のために、いじめ対策会議のようにしてしまった。科学者ならマスコミの論調を一蹴して、むしろ統計データに基づいた教育提案をしてほしかった。

そして、今回の益川教授の、日本の教育批判である。

教育より教育結果を重視しているのを改めろという話のようだが、(マークシート方式への批判は私もまっとうと思っている)ゆとり教育以来、旗色が悪くなっている、テスト反対論者たちがこぞってこれを取り上げている。

大江健三郎氏のことはぼろくそにいう日本の保守論陣も、理系のノーベル賞学者には一目置いているせいかまったく批判をしようとしない。

しかし、これは二つの点で問題がある。

一つは、60代の益川氏は、昔の日本人の子供たちがテストであくせくしていた時代のイメージで、教育を論じている。今は、たとえば全国学力テストにしても、結果を公開しないように、教育結果を軽視しすぎているほうが問題だ。あるいは、少子化のおかげで、一部の一流大学を目指す子供を除けば、教育結果が悪くても公立高校や私立大学に入れてしまう。

だから子供たちも教育結果を重く見ずに、分数ができないまま、まともな読み書きができないまま大学に入ってしまうのだ。

もちろん、益川氏は京大の教授だったので、教育結果を重視した秀才を見てきてそう思ったのかもしれない。だったら、むしろエリート教育の問題なので、文部科学大臣にいうのは筋違いだ。京大なら京大の入試を改革して、教育結果でないセレクションをすればいい。

ただし、京大は、入試問題は、東大以上に考えるプロセスを書かせる論述式の試験を出しているし、面白い人間を採ろう、ペーパーテスト型の人間でない学生を採ろうとして採用した後期入試で、大学に入ってからの伸びが悪いということで、真っ先に後期入試を廃止した大学である。

観察が間違っていたら、どんなに優れた学者でもいい考察はできない。

益川先生も、一般の高校などにいって、日本の学力低下の現状をつぶさに見てもらうと考えが変わると信じている。

やはり初等中等教育については見ていないのだから、いい提言は困難だろう。
物理の世界では誰もが認めるからノーベル賞をとったとしても、教育の世界では、素人に近いと考えてほしい。(それをプロと思ってしまう日本のマスコミや教育政策をつかさどる人間たちも、低レベルなのだが。たとえば、WBCの監督にサッカーの監督を、いくら世界一になった人でももってこないだろう)

それよりは、独立法人化して、実利がない物理学などの研究予算が減らされているという足元の問題を訴えたほうがよほど建設的ではなかったのだろうか?

もちろん、日本人だから日本語が大切といい、日本語でスピーチをしようとする姿勢には全面的に賛同するが