30日はえらい忙しい日だった。



コラム書き、口述筆記の取材、そしてエンジン01という教育問題を語るボランティアの文化人の集まり。



口述筆記でも、三枝成彰さんや林真理子さんとの話でも話題に出た話が、問題を解く人より、問題を作る人のほうが偉いという話である。



たとえば、フェルマーの最終定理でも、フェルマーがそれを証明したわけではない(できると言っていたそうだが)

仮説を出したフェルマーの名前は終生残ったが、解いたほうの数学者の名前はほとんど知られていない。



湯川秀樹にしても、中間子の存在を予想しただけで、それを証明したわけではない。



だから、数学オリンピックで金メダルをとるような優秀な子供が、意外に数学者として大成しないそうだ。

やはり数学も問題を作る能力と解く能力は別物なのだが、解く能力のほうが低く見られるのである。



日本の学問のレベルが低いのは、仮説を立てる人間が評価されず、ちまちまとした証明のようなことをやる学者が偉そうにしているからだろう。



医学の論文でも、統計上の優位差を出せば論文扱いをうけるが、仮説を打ち出した人間は、証明をしない限り論文扱いを受けない。

私が東北大学で受けた仕打ちも同じだ。

日本人として初めて、自己心理学の国際年鑑にアクセプトされた論文が統計処理をしていないという理由で、その年100人以上の中で、唯一採用されなかった博士論文となった。

翌年、データを取ってくれた人に申し訳ないからあまり言いたくないが、とりあえず、形式的な論文を出せば学位をもらえた。それでもインパクトファクターが3くらいある雑誌に載ったのだからましな論文だという。



日本では、年寄りが医者にかかるせいで面白い研究はいっぱいある。

65-69歳の高齢者では、タバコを吸っている人と吸っていない人の生存曲線が変わらないという。

要するにタバコを吸って癌や心筋梗塞で死ぬ人はその前に死んでいて、生き延びた人は、タバコに強い遺伝子をもっているのだろうというのが総括だった。

せっかく面白い研究だが追試がされていないし、英文にもなっていない。

日本の大学の先生方は、この手の面白い仮説より、外国の論文のマネばかりする。



結果的に、世界でいちばん日本の医者は大学に残る、つまり世界でいちばん医学研究者の多い国なのに、たとえば、New England Journal of Medicineの中で、日本人の論文はわずか1%だそうだ。



昔は、ある程度性能のよいものを作れる国がよかったから、よかったが、ITやバイオの時代には、このままだと立ち遅れるとしか思えない。