今朝の河北新報が、参議院予算委員会での「安重根記念碑」案内板を宮城県が設置した問題についての質疑を取り上げましたが・・・。


そして、今回の質問は、「記念碑」自体を撤去すべきというものではありませんが、碑文についての質問も多かったので、碑文の全文を載せます。


伊藤博文元総理は暗殺されているわけで、日本人が「義士」と述べるのはどうかと思いますが、お読みください。




安重根義士と千葉氏の顕彰碑文


 国の衰亡を見たって義兵を興し救国の英雄となった大韓義兵軍安重根参謀中将(1879~1910)時に1909年(明治42年)10月韓民族の主権を奪う日本の大陸侵攻の先鋒と見られた伊藤博文公は彼の手のもとハルピン駅頭に殉じた。


 比の事件は日本にとっては痛ましき国家元勲の死であり韓国にとっては悲願とする民族保持への止むにやまれぬ義挙であった。相対立する比の現実の中で総督府陸軍憲兵の任にあった本郷出身(栗駒町)千葉十七氏(当時25歳)は旅順獄中に囚の身となっていた安重根義士(当時30歳)を看守する役目にあった。


 実直にして正義に厚き東北人の一人であった千葉氏の目に映った獄中の安義士の挙動は正に国の運命を憂い民族の独立と名誉を守るため身を捧げた清廉なる人格の士であり時に語る平和への高邁なる理念には強く胸を打たれた。義士を称える事が公然とできぬ当時の情勢にありながら千葉氏は義士に同情を禁じ得ず心ひそかに尊敬の念さえ抱くに至り出来得る限りの労を尽くして、やがて刑場に消えゆくであろう其の身を惜しんだ。


 義士もまた、当時の日本人としては珍しい千葉氏の人間性あふれる知遇に応え3月26日死に赴く直前、軍人たる千葉氏にふさわしい一文を墨して贈った。曰く

為国献身軍人本分(国のため身を献げるは軍人の本分なり)


 千葉氏長じて帰郷の後も義士の遺影と墨書を仏壇に供え日々香を献げ死せる人の冥福を祈るとともに日韓両国の独立した名誉ある親善と平和の来らん事を祈念して若柳町大林(旧大岡村)に死した。きつよ未亡人もまた其の意を体し比れに夫の遺影を加え夫のなせるが如く日々香を献げ冥福を祈りつつ世を去った。千葉夫妻の行える美挙は死後にも其の一族に強く訴えるところあり、幾多の困難にあいつつも千葉氏の意を汲み義士の遺墨を70年間に渡って大切に保管し続けた。


 戦後新しく独立したアジアの友邦たる韓国の発展を冀いつつ1979年安重根義士生誕100周年の祝典を聞き意を決した三浦幸喜くに子夫妻ら千葉十七氏の遺族は東京韓国研究院を通して故国の首都ソウルに鎮座する安重根義士崇慕館に比の遺墨を供えた。


 国にとって貴重なる遺品を其の国の国民に還したこの挙を記念し安重根義士並びに千葉十七氏の稀なる篤行を顕彰すべく日本の文化人、政治家、日本居住韓国人並びに宮城県の有志たちにより千葉氏の眠る若柳町大林寺に比の碑を建立した。


安義士の命日に際し日韓両国永遠の友好を祈念して


1981年3月26日 宮城県知事 山本壮一郎