ここは、日本のどこかの漁港です。
漁師さんたちが、今日の仕事を終えて事務所に戻ってきました。
みんなタバコを吸ったり、お茶を飲んだり、おしゃべりをしたりしてくつろいでいました。
そこへ、ひとりの若者が血相を変えて飛び込んできました。


「大変だ! イワシと一緒に犬がひっかかってた!」


漁師さんたちは、この若者の言っていることがわかりませんでした。
イワシと一緒に犬があがるなんていうことは、どう考えてもありえないことだからです。


「何をボーッとしてるんだ! 早く! タオルとお湯を!」


若者の腕の中で震える小さな子犬を見てハッとした漁師さんたちは、慌てて子犬を介抱し始めました。



















漁師さんたちの手厚い応急処置のおかげで、子犬はまもなく意識を取り戻しました。


「おい! おまえ、どうして網にひっかかっちゃったんだ!?」
「誰かの落とし物だろうか!?」
「ばかやろう! こんなかわいい子犬をうっかり海に落とすやつがあるか!」
「小さいからつい…ってこともありそうじゃねぇか!? ぎゃははは!」
「しかしよく生きかえったなぁ! こいつぁ大物だぁ!」


気性の荒いここの漁師さんたちは、何でもない会話でもつい怒鳴り口調になってしまいます。
子犬はそんな漁師さんたちの顔を、大きな瞳でみつめながらシッポをふっていました。
誰かが子犬の空腹に気づいて、大急ぎで魚を焼いてきました。
のどに骨が刺さっては大変だと言って、誰かが身を丁寧にむしってくれました。
子犬はお皿に盛られた魚の身を、あっという間にたいらげました。
子犬は小さな舌で、小さな口のまわりを舐めながら、また大きな瞳で漁師さんたちを見つめてシッポをふっています。


「さぁて、問題はこいつをどうするかだなぁ!」
「おうち…っつったってなぁ! 首輪もしてねぇところをみると、飼い主はいねぇのかなぁ!?」
「保健所に連れて行くか!」
「そんなことしたら殺されてしまいますよ! あの、ぼくが引き取ります! ぼくが見つけたんだし!」


子犬の第1発見者である若者が名乗りをあげました。
誰も若者に反対する者はいなかったので、そのまま若者が子犬の飼い主となりました。


「名前は何にするんだ!?」
「イワシと一緒にあがってきたから、イワシにします!」
「それじゃあそのまんまじゃねぇかよ! もっと頭使えよ! イワ太郎とか! イッちゃんとかさぁ!」
「それだってそのまんまじゃないすか! イワシってかわいいと思うんだけどなぁ!」
「おう。そいつぁ確かチワワって犬じゃねぇのか? ひねるならそこひねったらどうだ?」
「チワワかぁ! ……チワ、ワワ、ワチ……。そうだ! ワッチにしよう!」
「おお! いいじゃねぇか! ワッチ! おいワッチ!」
「しーっ! 寝ちまったよ!」







ワッチと名付けられた子犬は、毛布の敷き詰められたダンボールの中で、いつの間にか眠ってしまっていました。漁師さんの大きな手なら両手で包めるほど小さな体が、静かな呼吸のリズムに合わせて上下しています。冷たい海の中をさまよい、あげくイワシ漁船で引き上げられたという過酷な現実を、もうすっかり忘れてしまったかのような、穏やかな寝顔をしています。


「ワッチ! 今日からはぼくが父ちゃんだぞ!」


若者がそう言いながら、愛おしそうに子犬の小さな体を優しくなでてやりました。











「…ワッチ。ぼくのなまえはワッチ…」


若者の言葉は、子犬の夢の中まで届いていました。
しかし、子犬の本当の名前は“ワッチミー”なのだと子犬が気づくのは、まだ先のお話です。