バイクの譜系 サイトより

 昭和45年頃、岡山市内の県立普通科3校(朝日・操山・大安寺)と言えば、岡山市内の教育に関心ある人ならば、有名大学を目指す為に当然、入るべくして入る名門校であった。

 小さい頃に頭が良いって言われていたので、当然、母親は、その普通科3校に入ってもらいたいと言う願望と、兄もその中の操山に入学していた。

 しかし、私は、その頃は、プラモデル作りに夢中だったので、将来は、タミヤ模型に入って好きなだけプラモデルを作りたいと思っていて、勉強はそっちのでけでした。

 その為、私立の1校には、合格したものの、上記の普通科3校には不合格でした。

 しかし、母親は、私立校には目もくれず、有名普通科高校(操山)に入学を要求。

 

 お陰で、浪人生活をする事に。

 1年後、母親の念願の操山高校へ。

 クラブは、生物部に所属し、部長までこなし、大学は、島根大学、文理学部化学科に。

 

 大学生活中にも、出雲大社には良く参拝していました。親戚のおじさんに会うような感覚で。


 国立大に入ったら好きな原付バイクを買ってやるという親の言葉に乗せられて、取り敢えず、国立大の島根大学でしたが、好きな原付バイクではなく、半ば半強制的にホンダのタイヤ巾がでかいノーティーダックスでした。


 それは、バイクにまたがった時に、私の希望していたヤマハのYSRでは両脚が届かないと言う理由からでした。

 高1から原付バイク(通称:カブ)に乗り、近くの山のワィンディングロードのコーナーを受験勉強の息抜きに攻めていました。

 大学2年の冬休みの始まった晩、それは、クリスマスの夜でした。

 明日、島根県松江市の下宿から原付バイクで帰ろうと、決めて早々に眠りに付いたのですが、小学校の子供宜しく、ウキウキと寝られませんでした。

 それならと言う事で、愛車のノーティーダックスに洗濯物とラジカセをバイクの後ろの荷台にくくりつけて、ラジカセからイヤホンを通してラジオが聴ける様にして、防寒の為にハラマキならぬ新聞紙を身体に巻き付け、服装は上下デニム、黄色のスカーフ、靴は短いながら皮ブーツを履き、白いジェットヘルメット(白バイ隊員と同じ形の)口周りは、黒の皮マスク(その下は、テッシュを挟んでいた)の出で立ちで、夜8時過ぎに岡山市の自宅を目指し出発!


 松江市内の国道9号線を少し走り出すと、パトカーに停められ、職質を受ける。


 自宅の岡山までのスケジュール(片道9時間:ほぼ中間点の岡山県の新見市内でガソリンを入れて、自販機のラーメンを食べる)←愛車のノーティーダックスのタンク容量が、僅か3リッター程しか入らない。(カタログ値の燃費では、70㌔/㍑) 全行程は、230kmなので、ガソリンが空になってもそこそこ、帰れるはず。


 私は、元来、冒険者なのだ。

 警察官も私のスケジュールを聞いてあっけに取られていたが、気を付けて帰る様にだけ言われた。


 夜の12時頃、米子市から日野町を通り、鳥取県と岡山県の県境の明地峠を上がりかけた時に愛車のエンジンが止まる。えっ、ウソ〜!およそ、明地峠の1/3くらい上がりかけてエンジンが止まる。

 幸いにして、月明かりが私を照らしてくれていたので、真っ暗のなかではないが、昭和53年頃なので、コンビニなんて無い。

 もちろん、携帯(スマホ)も無くて、連絡をとる手段は、街中で見られた電話ボックスくらい。

 峠沿いに民家は有れど、灯りがほとんど、付いていないし、ガソリンスタンドもその近辺には無かった。 

 唯一の希望は、明地峠の頂上はあるトンネルを越えたら、中間地点の新見市まで、緩やかな下りが続くと言う事だけ。

 食べる物も全く持って無かった。飲み物すら。

 全ては、新見市内のガソリンスタンドと自販機(ラーメン🍜)に託していた。

 もっとも近いガソリンスタンドに戻っても、朝がくるまでそこで、野宿となる。(路面に流れ出た湧水が凍っていた寒い夜)

 一か八か、ノーティーダックスの乾燥重量、約80㌔を月明かりの中、県境の峠を押し上げる事にした。


 峠の2/3程まで、押し上げただろうか、ほとんど車が走ることの無い峠道。お腹が減っていた状態だからだろうかこんな深夜の峠道に強盗でも出たらアウトでしょうなんて、マイナーな事を考えて居たら。


 岡山県側から黒のグロリア(悪者御用達的な)が、下りて来た。

 ヤバ!ほらほら、その車が、対向車線のままバックして来た。運転手は、いかにもみたいな対格の良いおっさん、その隣は、茶髪のお兄さんが窓から見えた。

 

 「どうしたん?」「峠上がってたら、急にエンジンが止まって、峠の頂上まで押し上げてます」「‥‥‥」

 

 続く