とりあえずの系図
久長 - 敏定 - 寛定 - 寛村 - 達定 - 達勝 - 信友 (大和守家)
良信(敏信) - 信定 - 信秀 - 信長 (弾正忠家)
信康 信勝
信光
んでもって注釈。
敏定の弟に良信(敏信)。これは推定。
信秀の弟に信康・信光。
そして
信長の弟に信勝。(信行は誤伝)
達勝の後継である信友は養子と伝わるが
その出身は不明瞭。
弾正忠家が明確に勝幡城に拠点を移したのが
織田信定の代。
この時点で尾張国内有数の商業都市・津島との
友好関係の構築なり、干渉出来る勢力を築き上げたものと考える。
信定はその後、木曽川上流域の木ノ下城を攻略し
隠居所とするのであるが
これは上四郡守護代・織田伊勢守家から奪取したものであろうか?
信定が木ノ下城に隠居し、
嗣子である信秀が家督継承・勝幡城の城主となった訳であるが
この頃(1527年以降)には
勢力を増大させた勝幡織田氏・弾正忠家に対し、
両守護代家が『警戒⇒敵対』の構図に変容してくる。
家督継承した信秀は勝幡城を拠点に経済力を誇示し、
1533年には京都から公卿を呼んで連歌会を催したりしている。
これは国内の敵対勢力や
京都の幕府・朝廷へのデモンストレーションでもあろう。
この頃には守護である斯波氏も相当零落しており、
尾張国と共に守護職にあった遠江国が駿河の今川氏に侵食され、
三河国では松平氏が今川氏に与して勢力を伸ばした為
尾張国南東部にまで今川氏の勢力が伸張していた。
斯波氏と守護代織田大和守家の弱体に関する経緯だが
少なくともこの両家は斯波義寛の代には協調関係にあり、
将軍の六角氏討伐において大軍を率いて参加し、
斯波義寛は『副将軍』に任じられたりと勢力の衰えは感じさせない。
が、跡を継いだ斯波義達の代になると
守護領国の遠江国に関して
領国の奪還を悲願とする今川氏との対立が顕在化し、
斯波義達は尾張国に動員をかけて遠江遠征を行い、
今川氏と度々争う。
長期に渡る遠征の頻発に
下四郡守護代・織田大和守家当主の織田達定が反発。
1513年、織田達定叛乱を起こした為に
守護・斯波義達に討伐され、下四郡守護代・織田大和守家は
織田達勝(養子・寛定の子とされ達定の弟)が当主となる。
反発する守護代を粛清し
遠江国へ遠征を行った守護・斯波義達だが
1515年、引馬城の戦いで今川氏に大敗を喫し、
遠江国への影響力を喪失、
これが為に尾張国内での求心力も失い、
幼年の嗣子・義統が新守護に擁される。
この一連の流れが
守護・守護代の弱体化になり、
尾張織田氏の庶流で勝幡城を拠点とした
織田弾正忠家の台頭の呼び水となる。
上四郡守護代・織田伊勢守家
下四郡守護代・織田大和守家
のみならず、
新興勢力の織田大和守家庶流・弾正忠家が
それぞれに傀儡として
尾張国守護職・斯波氏を擁するといった状況。
この中でも津島を拠点に
伊勢湾交易や河川流通を抑えた
弾正忠家・信定の躍進が目覚しく、
信定⇒信秀の代替わりと共に
対立の顕在化を産み落としつつも
経済力を後ろ盾にした弾正忠家の勢力伸張が進む。
家督継承を経て
勝幡城を中心とした尾張国南西部を
確固たる地盤とした織田信秀は
攻略目標として尾張国南東部、
つまり
斯波氏や他の織田氏の勢力圏外に自勢力の伸張を図る。
尾張国内での主導権争いの果てに
今川氏や松平氏等、外部勢力を伸張してきており、
とりあえずは
斯波氏を擁して国内勢力の結集が図れる外敵排除と
それを活用した自身の勢力伸張を狙ったとも思える。
信秀の那古野城奪取の年が
1532年とも1538年とも言われるが
個人的には1538年と考える。
家督継承からの月日や
尾張国内の情勢から考えて1532年では余にも早い。
1532年では奪取したところで維持は難しいとも思う。
この1532年には
大和守家・達勝、藤左衛門家・寛故の両家と
弾正忠家・信秀との抗争も勃発している。
大和守家は前述の通り、清須城を居城とする下四郡守護代。
藤左衛門家は弾正忠家と同様、清須三奉行家の一角で
小田井城を居城とし、その庶流に楽田織田氏がいる。
この大和守系織田氏の内部抗争は
1533年の7月に和議が結ばれ終息してるのだが
この事を考えると
那古野城奪取なんぞ行える状況ではなかろう。
和議が結ばれたこの1533年7月に
京都から山科言継や飛鳥井雅綱が信秀の歓待を受けており、
この時、那古野城の今川竹王丸(氏豊)も招待されている。
和議の締結と
山科言継や飛鳥井雅綱、那古野城の今川竹王丸への歓待は
連動したものであろう。
この事からして
信秀の那古野城奪取は1533年以降と思われるし
この後に拠点とする古渡城の築城年に関して
従来説とは5年ぐらいの差異が生じるとも思う。
この和議の件と公卿及び那古野今川氏への歓待で
尾張国内の主導権争いに関して
信秀の優位が確立されたものと思われる。
またこれ以前から、
信秀は三河松平氏に調略を仕掛けてるようにも思えるが
これは信秀の父・信定の代からの調略かも知れん。
三河松平氏の系図を簡単に書くと
長親 - 信忠 - 清康 - 広忠 - 元康(家康)
信定
となる。
この松平信忠の弟・信定なる人物がなかなかの反骨野郎なのね。
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