妄想を書き連ねるのも案外疲れるw
んで、磐井の乱。
ヤマト王権の継承者・継体天皇が
なんとか大和国に入った頃、
朝鮮半島南部では『新羅』が『百済』を圧迫。
『加羅』も『新羅』に侵食されていた。
ま、ヤマト王権の弱体化を感知すればさもありなん。
この時『百済』は宗主国・ヤマト王権に救援を乞う。
畿内を平定した継体天皇は皇位継承者として
この要請に応じ、軍を派遣。
が、新羅に通じた北九州の豪族・筑紫君磐井が挙兵。
九州北部を支配下に置き、ヤマト王権の派遣する軍の妨害を行う。
どうにも『三韓征伐』時の『熊襲』など、
九州北部の豪族は親・新羅のように思えてしまうが、
ヤマト王権の弱体化や王権の正統性への疑問が生まれれば
地方領主が反旗を翻すのも侭ある事。
敵を同じくするもの同士が結びつく事も自然の流れかと。
それだけ
当時のヤマト王権・継体天皇の求心力が弱かったともいえるし、
『磐井の乱』はヤマト王権からの独立を賭けた
戦乱だったのかもしれない。
この『磐井の乱』を制圧した事で、継体天皇の求心力が増幅され
『ヤマト王権』が再び認知されたのではなかろうか。
この継体天皇の後、
安閑天皇・宣化天皇と経て、
継体天皇と手白香皇女(仁徳天皇系)との間に生まれた
欽明天皇が即位し、現代に連なる。
安閑天皇の御世には『武蔵国造の乱』というのが起きてもいる。
それだけ王権の弱体化が著しかったのであろう。
欽明天皇と母を異にする安閑天皇・宣化天皇が
対立して『二所朝廷』となっていたという説もあるが、
対立の可能性は否定しきれないが『二所朝廷』という
王権の分立にまで至っていたかは微妙に思う。
そして欽明天皇の御世には
援軍を派遣するも朝鮮半島の任那・加羅が滅亡。
欽明天皇の皇后は宣化天皇の皇女・石姫。
この間に生まれるのが敏達天皇。
欽明天皇の后には他に蘇我氏の娘がある。
この後の世が
蘇我氏・推古天皇・聖徳太子など
著名な人物が彩る
神話・伝承を経て成立した歴史の時代になる。
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