悲運の宰相 | つれづれなるまゝに

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狂ひたるモノ・侘助

堀田正睦

佐倉藩主。『蘭癖』(外国の知識・文化に興味を持つ事)大名として結構有名。順天堂大学は彼が建てた学問所・佐倉順天堂が前身。開明派の幕閣でもある。阿部正弘から老中首座の地位を託された。コノ件に関し鎖国攘夷派からは信任を得られず中々きわどい政権運営を強いられる事になる。

アメリカが日米修好通商条約の調印を求めて来た際、条約の勅許を朝廷から得る為に上洛。ココまで幕府の権威は失墜していた。更に時の孝明天皇が強固な攘夷論者であったため、勅許を得る事ができず、更に幕府の権威が失墜してしまう。

そんな中、将軍継嗣問題が浮上、この時、堀田正睦は朝廷との関係修復を狙うためか一橋派に組する。

正睦が上洛中に、井伊直弼が大老に就任すると、井伊は堀田をはじめとする一橋派の排斥を始めた。これにより堀田正睦は失脚する事になる。

政治路線としては阿部-堀田-井伊の3者は『開国派』として共通点があった。が、阿部正弘没後、将軍継嗣問題における権力闘争と云う部分では『堀田正睦』には後ろ盾となる存在がいなかったのが勝負の分かれ目か。

幕末期の幕府と朝廷との調整役に忙殺された感がある。
有為な人物であるものの
コノ御仁にとっては時勢が急転しすぎたとも思える。

彼が阿部正弘に後事を託されたと時と前後して
第13代将軍・徳川家定に島津家から篤姫が輿入れしている。

コノ時点で幕府は開国派大名家との連合政権を模索していたのかもしれない。
ただ先にも書いたように時勢・時局が大きなうねり生じていた為
コノ開国派路線と云うものが定着するまでにこの後、大規模動乱を経験する事になる。

調整役として奔走せざるを得なかった堀田正睦は
能力的な部分や政治思想面で
もっと評価されてもいいと思えるのだが。
時勢に翻弄された悲劇的な人物とも思える。

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