『井伊直弼』さん。この人ねぇ、すんごい苦労人なんだよね。大名の子ではあるんだけどさ。
通常後継者以外の男子は他大名の容姿に送られる、というのも『御家断絶』で困るのは当の大名どころか幕府自体も『浪人増加』~『治安悪化』という問題を生んじまうからなんだよね。
ところがこの御仁、兄弟数が半端なく多く、側室の子でもあった為『養子縁組』の相手がいないという状況に追い込まれちまった。
結果、藩のお荷物状態になってしまってたわけなんだな。
この間が『15年』。ま、15年間オタク状態ともいえる。しかも生産性が全く無い。
ま、逆にこういった期間があったからこそ、多くの学問・芸術の道を究めたともいえる。
そんな中、彦根藩の世継ぎと当主が相次いで死去したため、彦根藩の当主の座が転がり込んでくる。
この辺の流れは『徳川吉宗』にも似た印象。『謀略・暗殺』と云う説までで出てくるくらい。
彦根藩の藩政改革を成し遂げ、江戸城詰めにまでなると
将軍継嗣問題や外交問題で存在感を増す。
この間にもいろいろと幕府内の権力争いがあって
『将軍継嗣問題』『外交問題』などが複雑に絡み合い、更なる幕府権力の弱体化を呼び起こしてもいた。
自らが推す紀州藩・徳川慶福(家茂)を将軍に吸えることに成功すると、対する『一橋慶喜』派(徳川斉昭、等)を徹底的に潰しにかかった。
コノ流れってのは将軍継嗣問題で弱体化した幕府権力の建て直しでもあるし、以前、老中首座であった『阿部正弘』が幕府政治に外様大名の意見を取り入れたことに対しての反発とも採れる。
『徳川体制』の維持のためには避けて通れない問題でもあったわけだ。
そして『外圧』が強まると『阿部正弘』が結んだ『日米和親条約』の発展版、『日米修好通商条約』に調印する。
こうしてみるとコノ御仁ってのは『中道』の政治を行ってきた訳なのだが
先の将軍継嗣問題での一橋派への弾圧が厳しすぎ、更に『水戸学』に代表される『鎖国攘夷』派に恨まれるようになってしまった。
コノ結果が『桜田門外の変』へと繋がってく。
序に寡聞ではあるがこの変事の際、井伊直弼自身は計画を知った上で佩刀せずに登城したという話がある。
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