昭和3年に愛犬家の同好会としてスタートしたNSCですが、昭和6年に会員の板倉至大尉と三頭の軍犬が戦死したことで状況は一変。
「国家に命を捧げた板倉大尉に報いよう」と親軍路線への方針転換を訴える伊藤藤一ら革新派が台頭し、それを陸軍省から派遣されていた築山博一大尉らが煽り立てました。
「NSCは同好会であるべき」とする保守派の抵抗を受け、革新派はNSCを脱退。あらたに帝国軍用犬協会を設立します。
日本シエパード史の暗黒期は、こうして始まったのでした。
昭和7年のNSC会合では、築山大尉が軍犬調達窓口「NSC愛国犬班」の設立を提唱。この時点で帝国軍用犬協会的な組織の構想があったワケですね。
引續き懇談會に移つた。當夜は出席會員の誰もが交々立つて、面白い身邊雜記……勿論犬を中心とした……御自慢話其他の意見を述べられた。
紅茶を喫し、菓子を御馳走になつて、當るべからざる快氣焔。煙草の煙り室内に滿ち、會舘規定の十時に至つてもいつかな腰を上げず、いつもながら、眞に犬を愛し得る人達の集りとて、その愉快さ亦格別であつた。
談つて盡きない犬の御自慢、聞いてあきない犬物語。芝居見る氣分は誰しも經験出來得るが、犬の話に我を忘るゝは、たゞ犬を愛する人のみが知る氣分でありませう。
……着席順に、石岡氏
先づ立たれて、會報の内容外觀一新せしことを喜ばれ、先般軍犬の獻納に就て、小野、相馬兩氏の美擧に感謝され、自分は全く斯る企のあつたことを知らなかつたので、今後此の種の運動の興つた場合、率先自分の愛犬を御役に立てたい。倶樂部として如何なる計劃を今後に有するか?と質され、
石岡氏は、これまでのブルーグレー単色から
カラー表紙へ移行したことを話しています。
佃氏
御自分を紹介され、未だ入會間もなく、シエパードに對する智識も極めて貧弱、目下大いに研究中にあるが、この萬能犬なシエパードを、も少し世間一般に普及さすべく、當倶樂部として何等かの方法を講じられたしと希望され、
次いで横濱より御出席の青木氏
自分は總會々員、展覧會々員と云はるゝ程、斯る會合には出席をかゝしたことなしと、熱心振りを示され、會報に研究記事の多くなつたのを喜ぶ。今後もなるべく研究欄に我々を益する記事の多からんことをと希望された。
田島氏
早大シエパード研究會の學生相手には甚だ雄辯なるも、實はシエパードに關する研究極めて薄く、斯る席上では極めて雄辯ならずと、一面甚だ謙遜され、他面シエパードに關する蘊蓄の深きをチラつかせ……、
相馬氏
レオ號獻納に就て種々御褒めに預り恐縮して居る。レオ號は中島氏より讓られた自分が最初に飼つた犬で、しかも最初に訓練した最も親しみの深い犬で、一度近歩四聯隊へ寄贈したが、滿洲に軍犬希望の話を聞き、その諒解を得て、滿洲軍へ獻納した次第で、自分の訓練の結果が、実際に如何に役立つてくれるか氣がかりであると、親心をしめされた。
●新宿中村屋の相馬安雄社長が関東軍へ寄贈したレオ號
三宅氏
次號を警察犬號とすることは誠に時機に適したことゝ思ふ、と原稿を下さる様子を示され、
南理事
あの巨軀をゆらり〃。三上知治畫伯の軍用犬の油繪獻納の際、陸相官邸に於ける出來事、それは度の强い眼鏡の伊藤理事が綺麗にふき込んだ窓ガラスのあるとも知らず、それに首を突込んで靜かな官邸に時ならぬ曽我廼家(※劇団。松竹新喜劇のルーツでもあります)を演じ、官邸の人を喜ばした物語りをされ、滿席哄笑。一同改めて、伊藤理事の額を見なほした。
ついで澤田氏
その御家庭まれに見る愛犬家揃ひ。仔犬を死なした失敗談に一座しんみり。
次いで立たれた久保田理事長も澤田氏同様仔犬の御自慢話と飼育の失敗談。諸君、澤田醫博と云ひ、久保醫博と云ひ、仔犬飼育では博士號を返納して貰ひませう。
伊藤藤一理事
前二者の失敗談のあとを承けられて、御自慢のヂステンパー物語り、滿座傾聴。
築山博一大尉
相馬、小野兩氏の美擧に謝意を述べられ、石岡氏その他の犬獻納に就て、その心意氣に感謝され、將來皆様の御援助のもとに愛國犬班とでも云ふべきものを組織したいと御希望を述べられ、
三上知治畫伯
軍用犬の油繪を陸軍に献上の動機を物語られ、
草野氏
デイステンパー療法に關し、二、三の質問を試みられ、
山田氏
軍縮の松井將軍の愛犬に對する狂愛ぶりを面白く述べられた。之は次號へ原稿として頂戴することにしませう。
かく人々の物語りを、鉛筆でチビ手帳へ忘れない様に書置きむる役の小生、餘り樂な仕事にあらず。自態面白い芝居でも、活動でも、落語でも、乃至清元、小唄なんでも眼に見耳に聽く場合、うつとりとした氣分で見聽く處に價値があるんで、鉛筆もつて手帳もつて、軍隊に於ける曹長の様な役目をしたんでは興味は半減。
いや全く面白くない次第である(津村)
日本シエパード倶樂部總會懇親會(昭和7年6月25日)


